迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

真の“貧困”は、自らが望まないとなれないモノ…?!

タイトルで、またトチ狂った事を…っと思われた、そこのあーた、先に結論を言えば、今のご時世において、いわゆるインテリ系を自称する輩が求める“貧困の姿”ってのは、正直な話、70年以上前の戦火で何もかもを失った状態まで戻せといってムリバナである。もっと言えば、芸能人全般を映画俳優とお笑い芸人で差別してる時点でお察しであり、どんなに“人気が高い”芸人でも、仕事の数以上のギャラを得られていないのが現実であり、その“ギャラの安さ”から、単に仕事の依頼が増えてるだけで、生活そのものに余裕がない人が殆どである。

更に言えば、昨今の“貧困”の“正体”は、消費増税よりも物価の“低水準”での安定を望み過ぎた結果であって、コストマネジメント(費用対効果の管理)を履き違えて、必要以上に人件費を全振りで削ってるからおかしい訳である。つまり、究極の“安物買いの銭失い”を、社会全般でやっちまった結果がコレである。もちろん、経費削減という論理には一定の理解ができるが、それはあくまで“目に見えるカタチ”でのコスト管理であって、裏側を解説した上で、それでも納得できない人を相手にする必要はない話であり、事情がわかってる以上は、無茶な注文ができる訳がないし、仮にそれが通るのであれば、必ずそれ故の不具合や事故が予見できるモノである。

芸能人関連の話で言えば、桂春蝶の経験を“貧困に非ず”と批判する意見がSNSで散見されるが、彼が先代春蝶の息子だからということで批判してるのであれば、的外れも良いトコで、彼の師匠は桂春團治であり、父親ではない事を知っとかないとダメである。仮に師匠が本当に冷徹な人であれば、まず“先代の息子”という時点で弟子にはしない…畏れ多いからではなく、次代の“春蝶”継承候補生は、既存の弟子で充分事が足りていて、且つ、話題性のみで襲名できる代物ではないからだ。だから、今の名を襲名する以前は“桂春菜”を名乗ってたし、それ以前は、バイトに明け暮れる苦学生だった訳である。また、巷で大騒動になっている深夜アニメの“ポプテピピック”で、次々と大御所級の声優が主人公の声を充てている訳だが、その中で古川登志夫に対して“仕事選べ”と意見した事に対して、当人がTwitterでこう意見してる…


実際は、これ以前にややキレ気味の呟きをやってたんだが、ヲタク界隈でも“大御所”と思われている声優ですら、その役を得るために、事務所マネージャーが制作会社や放送局などに問い合わせ、オファーを取ってくるのが殆どであり、そもそも、声優の大御所クラスほど、本来は“舞台俳優”として飯が喰えないからこそ、洋画の吹き替えやラジオドラマ、アニメで“声を演じる”事を稼業にしたまでに過ぎない。ぶっちゃけ、アニメ声優と他の俳優に線引きを入れたのは、個々のファンやメディアであって、本来ならテレビドラマや映画、舞台劇での仕事をこなした上で、更なる演技力を身に付ける為にアニメを“演じる”のが役者としての本分である…故に、モノクロ時代のアニメには、今では想像つかない様な大御所俳優や女優が声を充ててる事が多い。

“貧困”の正体ってのは、世間が勝手に求める“惨めな存在”であって、その最低条件が“絶対的貧困”である…収入が乏しく、様々な事情で定職に就けず、衣食住がままならない状態の人を“惨めな存在”として仮定し、その“条件”が一つでも当て嵌まらないのであれば、それは“貧困”として認められないという訳だ。だが、そんな人の多くが本当に惨めか?答えは“NO”である。“絶対的貧困”という定義にいるとすれば、それは零細農家(いわゆる水呑百姓)や身障者がいる低所得層が該当すると思われがちだが、農家は集落内コミュニティーがしっかりしてれば、物々交換による取引でどうにかなるトコがあり、身障者がいる家庭の場合、様々な公的サービスによる費用の減免が受けられる。(オイラん家は、義母が腎不全に伴う透析患者として、身障者一級の扱いになる為、役場で申請すれば高速道の通行料が半額になったり、NHKの受信料が免除される。)むしろ、“普通のサラリーマン”の方が安定した収入があるにも拘らず、様々な部分で負担が多い…だから、“相対的貧困”となりやすいだけであって、そこでちょっと考え方を変えると、相当な矛盾が見えてくる…なんでも金銭“だけ”で解決させようとするからこそ、本当に必要な“支援”ができなくなるだけでなく、“絶対的貧困”にある人以上に惨めになる訳である。

“自分”が惨めだからって、相手をボロカスにいう暇があるなら、なんで“惨め”なのかを考えた方がいい…それは単に、才能がある人が、社会的に“認められた存在”であるからこそ、自分にない魅力に対する僻みと、その“対価”を払えないのに欲張る無神経さが、結果的に“勝手な貧困像”を生み、自尊心を守りたい一心で相手を罵倒する訳である…“裏側”を知り、本当に必要な支援とは何かを理解できた時、人は初めて自身の“無礼”を知る。万一、全方位から好かれる存在がいたとしたら、故にその対象者は“人間不信”に陥るし、全方位から嫌われる存在がいるとしたら、故に誰しもがその存在感に気付き相手にしたくなる…おかしなモノです、それだったら、自分が“気にしない”という立場で俯瞰すれば良いだけです。誰からも嫌われず、そして好かれもしないから。“嫌い”とか“苦手”という意識は、“好き”や“得意”という感情と表裏一体であると同時に、自分自身に深く関わる重要案件だからこそのモノ…でも、そこには絶対的な価値観は存在しません、勝手な感情論です。他人から“惨めな存在”として憐れんでもらってるのであれば、自分自身もまた、相手に対してそう思って入れば良いだけです…言葉にせずとも、ここしか“相手にしてもらえる存在”がないのですからねw