迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

警官銃殺にある“同情論”の背景…

滋賀県警の若手巡査が、教育係の上官を銃殺した事件…本来あってはならない出来事だが、どうもその背景に、どうしようもないパワハラの匂いがプンプンしてるのか、SNS上では、犯行に及んだ若手巡査を擁護する意見が散見される。今の時代であれば、起こるべくして起きた事件と言える訳だが、これが20年以上前なら、蛮行に対しての批判が殺到して、とてもじゃないが件の若手巡査も、恐らく逃走に使ったパトカーの中で自分の頭に引き金引いてた可能性がある。もちろん、一過的な感情による殺害行為は許されたモノではないし、取り返しのつかない事をやってしまったことには変わりないが、それ以前として、そもそも、こういうことになりかねんとわかっていながら、上司ヅラして罵倒する“権限”って、殺害された巡査長にはあったのか?恐らくだが、そこまでの推測や概念を持ち合わせていなかったか、教育役に抜擢されるまでに、それ以前の先輩に、同様の“教育”を受けたせいでそうなってしまったのかも知れん…思慮深い人間なら、自分のやった行為によって、どういう影響が自分に跳ね返ってくるかを、ある程度は予測できるモノだが、時としてそれが自分と他人の感覚がズレてるが故に、最悪の結末を迎えたのであれば、これほど双方にとって“悲しい話”はない。一方は人生そのものを棒に振り、もう一方は生存権すら奪われた格好になるからだ。

これは何も警察だけでなく、自衛隊の中でも時折発生する事案であり、故に退役後はゼロからの出発として、畑違いな職種に手を出す人も多い。また、様々なセカンドキャリアを公表する人ほど、実は前職において人間関係が拗れた事によって、居場所を追われたケースがちょいちょいある。つまり、本当に“やりたかった事”を“諦めざる得なかった”事案に遭遇したがために、路線変更を余儀なくした人はまだマシな方で、それすら“できない”状況下にいる人は、故に、渋々とそこに残らざる得なかっただけであり、その鬱憤がいつの間にか、自分自身の人格を歪めてしまってる事に気付かぬまま今日に至り、それ故の“報復”を、自分でも気付かぬうちに、自分の後輩や子孫にブチ撒けてる訳である。ここまでくると、もう修正が効かないし、故に老後の介護を不安視したり、自分ではどうにもならない状態に陥った時に助けを求めても、誰も救済を行おうとも思わなくなるのである。

日本の企業経営者ほど、“タダ働きする奴隷が欲しい”と願うらしいが、古代史における“奴隷”とは、使役動物と同等に、健康管理や環境保持のために、分相応の管理義務が雇い主(事業主)にはあって、それを怠れば、蜂起が起きるだけでなく、他の事業者や為政者によってフルボッコされる事になる。つまり、明確な主従関係がある以上、主人たる者は従者の安寧な生活を保障するために、仕事と分相応の賃金を支払ってこそナンボであり、従者たる奴隷は分相応の社会保障を受けてる以上は、主人に仕えてナンボである。その“信頼関係”の下において、主人と奴隷の人権は対等であり、そこの部分が理解できないまま地位に胡座を描く者は、故に罰せられて当然である。これは、宗教団体だろうが行政機関だろうが、ましてや民間企業であっても、更には“国の民”を名乗る者であっても同じ事であり、ココんトコを勘違いしている輩が多い事…いわゆる“特権階級”とされる存在なら何やってもいいというのじゃなく、存在が“邪魔”だから隔離されてる可能性もあるし、能力的に“不適合”だから分けてるだけかもしれないのに、それを“差別だ”と叫ぶ事自体、片腹痛い話である。

話は逸れるが、オイラが有名キャラタクターデザインのグッズを持たない本意は、著作権でメシ喰ってる輩が気に喰わないからである…と言えばギョッとする人の方が多いと思うが、正確に言えば、過去の“遺産”に縋る商法を延々と正当化してる態度が気に入らないのと、できるだけ自分で描いたイラストを使った方が“安上がり”だと思ったから、基本的に自分が持つスマホケースは100均のクリアケースにして、代わりにケースとスマホ(iPhone8)本体の間に自作イラストをプリントした紙を挟んである。(以前にも紹介したが、オイラのiPhone8は、御来光様のイラストが挟んであるw)それに、Mac mini のモニター画面や、iPad Air2とiPhone8の待ち受け画面や壁紙も、自作イラスト(しかも菫華の君)で統一している。ここまでするのも、他人の著作物に手を出して、その“使用料”を払うぐらいなら、自前で作って飾る方が、はるかに“自分らしさ”を証明できるという信条があるからだ。故に、第三者によってパクられたとしても構やしないが、パクった以上は、生涯に渡って使い続ける(=恥を掻き続ける)根性があるかって問い質したい。それは、当然のことだが、オイラ自身が貰った競馬実況アナのサインに対する“代償”と一緒で、手元にそれがある以上は、今後何が起きたとしても、彼らに対して“不忘の誓い”を立てると同時に、後世にその存在を伝える義務があるという勝手論からの“縛り”である。これを破るということは、作品を作らないだけでなく、自分の人生に終止符を打つ事になる…それだけの覚悟を持った上での話だ。

つまり、あまりにも“ポイ捨て文化”が間違った方向で進み過ぎた弊害であると同時に、自分を犠牲にしてまでやりたかった事(生涯守り続けたかった事)自体を見失った人が多過ぎる事を意味してる訳であり、利益追及の方向性を見失った守銭奴ほど、本当の意味での財産の有難味や、周囲で苦労してる人々への謝罪する気持ちを、簡単に捨て去るだけでなく、常に“功績”だけを求めて精進を怠る。だから、体裁を繕うばっかで批判を恐れる。その結果がコレだったなら、まさしく“自分が望んだ結果”である。そこを否定したいのであれば、敢えて“失敗”する事を恐れずにやってみる事である。“失敗は失敗だから…”という人もいるだろうが、真の“失敗”ってのは、何も挑まない、動かない、自分から始めようとしない事すべてである。故に、バカにされようと“自分がやりたい事”全てに対して全力疾走できる奴だけが、真の“成功”を勝ち取る事ができる。それができない人ほど、自分が“敗北者”である事を認めたくないあまりに、自分より弱い立場の相手を罵倒し、時に全力で潰そうとする訳である…“負の感情”に屈しない人は、どんなに悔しい思いをしても、それを自分より弱い相手に向けないし、それ以前に前に進む事を止めない。一見“逃亡”してる様に見えても、殆どの生物は“前にしか”進むことができない…顔が、目が、感覚を司る機関が向いてる方向にしか動かない以上は、それは“前進”してるのであって“後退”ではない。結果ばっかり求めるあまりに、進捗状況を見据えない人ほど、それは単に“停止”してるだけで、見方を変えれば“死亡”してるのと同じだ。死にたくなければ、前に進むしかない…その覚悟がある以上は、一過的な感情に流されることはない。双方が感情的になれば、どっちにしても悲劇しか待っていない。

教訓:“自分の時代はこうだった”という言い訳で、自分より若い世代を罵倒する権利はない。自分の“犠牲”が無駄に思えるなら、撤退するのも一つの選択肢…顔が向いてる方向が“前面”である以上は、それが一つの“前進”である。