迷馬の隠れ家 はてな本館

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ざっくり解説?! 学会員の感覚的な“法華経”の捉え方。

今月、NHKEテレで、“100分de名著”という番組で、“法華経”についての話をやっているんだが、基本、宗教関連の話というのは、信徒でも自分が取り扱ってる経文の具体的な意味や、編纂された時の背景や経緯を、理解してる人ってのは、たとえ本職の僧侶であってもごく僅かといって過言ではない。つーのも、そもそも、ほかの宗派・宗門であっても、いわゆる“読み物”として経典を読み、学ぶ機会自体が稀であり、他宗派の僧侶であっても、学術的な観点で研鑽すること自体、実は殆どやってない。故に、実際に経文を用いて勤行(唱題行)するにしても、普段だと、その字列を読むのが精一杯で、根本的な意味や“物語”を理解することは、不可能に近い…が、学会員やってると、どうもそこんトコに関して、(法華経方便品&寿量品自我偈限定とは言え)感覚的に理解できるというか、実体験と符合する事が多くて、自分でも驚く事がちょいちょいあるw ま、そのヒントとなってるのが“御書”による解説&研鑽という、いわゆる“教学”の実践があるからこその話な訳で、多分GW明けぐらいに学会員初心者向けの任用試験も行われるんで、ざっくりだけど、オイラがわかる範囲で解説しようと思う。

基本的に法華経とは、仏教他宗派においても“最高位の教え”という格付けで取り扱われる事が多く、特に葬式の場において、僧侶が読経する経文としては、宗派を問わず、読経代が一番高いモノとして提示される事が多い。(葬儀代ケチると、大概の宗派は、般若心経で済ませる…いやね、アレ、経文としては一番短いんだわ、マジでw)但し、学会員が読経する法華経は、現在は創価学会の規定により、SGI(創価学会インタナショナル)との兼ね合いで、法華経の方便品と如来寿量品の自我偈と呼ばれる部分のみを採用してるが、“日顕宗”という名称で見下す以前の日蓮正宗の信徒団体だった頃には、自我偈より前にあった部分(古参の学会員なら誰もが知ってる長文部分…良医病子の喩えが出てくるのは、ここの部分)も唱えてたし、これが身延派(日蓮宗系)だと、確か勧持品も読経の対象になってたかと思う。とは言え、日蓮法華系宗教団体を名乗ってる以上は、法華経の教えが基本であり、それを具体例を用いたり、実体験上での出来事を交えて解説してるのが、“御書”の要点になってる訳であって、故に学会員が常に会合で研鑽してる訳である。だから、番組上での解説に対して、普通の人の感覚では「え、そうなの?」なモノでも、教学で散々学んできてる学会員だと「あーなるほどw』ってなる訳である。

特に“女人成仏”に関して言えば、提婆達多品に出てくる龍女の話は、一見すると“女性は男性に転生しないと成仏できない”と説かれてる様に思える話だが、実際の話は、悟達してる龍女が、その“成仏”の姿にイチャモンつけた知積菩薩と舎利弗の前で“実証”を示す為にやったまでに過ぎず、イチャモン付けた彼ら自身が、ぐうの音も出ない程黙らざる得なかった…古代インドでは、女性は人権すら守られる様な社会ではなかったが故に、釈尊が考える“男女平等”のあり方を模索した結果、女性であっても(当然、子供や人間以外の生命であっても)、尊極なる価値(=仏性)がある以上は無下にすることなかれと説く為に、こういう一例を挙げただけに過ぎないのであり、提婆達多とて成仏できる(悪人成仏)と説いたのも、確かに教団分裂や直接、または間接的に暴力を振るったけど、それは過去世においての師匠だった可能性があるとして、問題にしなかった訳である。つまり、どんな人でも命の中に仏性が内包されていて、それを取り出す勇気(覚悟)と確信できる心の強さが“勝負の分かれ目”となるとした訳である。

そして、久遠実成という概念は、まさに、釈尊が自分自身の人生全てを賭けた“大勝負”であり、今日まで、その教えや哲学が(多少の地域差や解釈の違いはあれど)残っている以上、それは釈尊の“永遠の生命”を実証したのと同じという訳である。当然だが、日蓮大聖人が掲げる広宣流布の大願に対する“答え”として、SGIが世界中に存在し、“御書”が各国の言語に翻訳されて研鑽されていることを踏まえれば、その“勝負”に勝利したことを意味する訳である。なぜなら、釈尊が提唱した、“人間尊極の哲学”が、もしも編纂当時の時点で“否定”されてたなら、当然だが、それを“実証”する後世の記録も存在しないし、それ以前として存在そのものが“否定”さてた時点で、釈尊の教えそのものが“妄語”となり、一人としてその“哲学の存在”に気付かぬままで終わってる訳であり、当世の弟子檀那(信徒)が、どういう経緯であれ釈尊の言葉を未来に繋ごうと請願したからこそ、ここまで残ってる訳である…そう、オイラが掲げる“不忘の請願”と同じで、たとえ他人からバカにされようが、変人呼ばわりされようが、自分自身にとって大切な“愛すべき人の記憶”を後世に残していこう、できる限り伝えていこうという概念そのものを、具体化したのが、法華経の勧持品や寿量品の中で説かれてる概要なのです。故に、様々な解釈に基づいた法(阿含経や般若心経など)が存在し、そしてそれらの“大本となる概念”と仏教の“根源たる法”が法華経という訳です。

ま、あくまでこれは、オイラの感覚で説いたモノであって、正確な“答え”にはならないが、それでも、仏教がいかに先進的な哲学であり、その中でも法華経がいかに“人間らしさ”を追求した教えであるかを理解していただけたら幸いです。