迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

性犯罪の根源悪は、異性である事と…

今日は先に結論を書かせてもらうが、性犯罪の多くは、ある意味“正しい繁殖活動”の成れの果てであると同時に、自分の意思で選り好みするからこそ、“犯罪”となる…つまり、不特定多数の女性を襲おうとする男性は、単に快楽のみを求めてるだけでなく、本能的に“子孫を残す”行為をやってる訳であり、それ故に人間としての“理性”を失ってる状態であり、故に被害者からすれば“恐怖”でしかないのです。

但し、だからと言って、それまでの功績や貢献までも“否定”してはいけないし、逆を言えば、それ故に傲れたのであれば、そこまで“追い詰めた”責任が、社会そのものに生じる事になる…誰しも、著名人や為政者に対して“聖人君子”たる姿を要求しがちだが、一歩踏み込んで考えれば、自分の目の前にいる“相手”に対して、“人間である”という概念が、いつのまにか忘れてるのではないだろうか?自分が描く“理想の存在”であれと過剰に要求するからこそ、相手自身が息苦しくなってるという事に気付かず、ある日突然、裏切り行為を受けたのであれば、それこそ“潮時”なのである。相手も“人間”である以上、いつまでも“操り人形”のまま、担がれ続ける事に対して嫌になる事だってある…そんな“当たり前”な事に、気付いてやれないままでいれば、その歪みは悲劇を招く。過労による鬱からの自殺願望も、結局は精神的な緊迫感から逃げ退かれたいから来る発作であり、性犯罪や依存症の多くも、ほぼ、それが“原因”である。その“回避”の為にあるのが風俗であり、精神科医によるカウンセリングであり、そして正しい信仰である…宗教の本来の役目は、一切の精神的な“拠り所”であり、様々な憤懣や疑念に対する“捌け口”であり、根本的な人権擁護の場である。だからこそ、様々な教えが存在し、TPOに合わせた指導が哲学として存在する訳であって、その用い方を誤るから、時として教義が歪むのです…指導者も人間である以上、その弟子が求める模範的な姿勢を、常に示し続けることが難しいか、過去の“宗教絡み”の事件を鑑みれば、察しが付くものです。

当然ですが、“被害者”が実害を訴えるのは、被験者だからこそ与えられる権限であり、そこに“選り好み”があってはいけないのです…“相手”が著名人であろうが、自分の好みの容姿だろうが、どんな地位の存在であろうが、犯した罪は関係ありません。みんな“同罪”です。貧困層の万引きと富裕層の万引きは、事情が違っても、万引きという“犯罪行為”に差異は存在しません。それと同じで、性犯罪やハラスメント(虐待)も、相手が誰であったとしても、それは許してはいけません…どんな“相手”であっても、犯罪行為は犯罪行為であって、だけどそれが人命救助や危険回避、自然災害等の偶発的事故でやむを得ない場合、そこはそこで考慮すべき話です。その分別を無視して“被害を受けた”と騒ぐのは、完全にお門違いな話です。つまり、事実無根な事案をでっち上げる事も、その時点で犯罪行為と差異はないのです。

だからこそ、本当に自分がやった行為が、どういう影響が出るかを解った上でやってる分においては、故に自分でけじめを付けるのが筋であり、本来であれば組織が責任を負う必要はありません…が、組織として管理不十分だという認識を持ってるのであれば、必然的に“連帯責任”を負う事だってある訳であり、それが活動停止や解散というカタチであるなら、却って当該者自身を更に追い詰める格好になり、その先は悲劇しかありません。まして“家族”という感覚で運営してる組織だと、故にその“罪の重さ”を分配しがちです。けど、そこで“線引き”をすべきであり、組織が過去の功績や栄光に縋ってたからこその慢心であったなら、分相応の“落とし前”を当人に取らせるべきであって、縁を切る事も含めた処罰を行う事も、組織を守る為にも必要となるのです…国会審議を拒否してる既存野党も、与党のスキャンダルを責める以上は、自分の幕下がやらかした粗相に対して、分相応の処罰を与えなければ、誰が信用できるのでしょうか?“相手”も“人間”である以上は、自分が求める“理想の存在”を強要すること自体がおかしいのであり、“人間”として尊重し合える立場としての模範を自らが示し、共存出来る様、一緒に模索するのが“人間”という所作ではないでしょうか。

教訓:傲れる者久しからずや、今一度、自分の振る舞いに対して責任を持て。