迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

“人の振る舞い”こそ、尊厳ある人の心得也…

「教主釈尊の出世の本懐は、人の振る舞いにて候いけるぞ」

これは、“崇峻天皇御書”の最後らへん(業務連絡:御書の1174P)に記載されてる言葉で、言葉をそのまま現代語(てか、スラングな言い回し)に訳すると、お釈迦様がこの世に生まれた目的は、“人間らしさ”の追求に他ならない…となる。ま、本来なら、その前後にある言葉を踏まえた上で用いるべき言葉なんだが、あまりにも態度の悪い高齢者や国会審議をサボる議員が多いんで、Twitterでは吠え足りないんで、こっちでざっくり、この言葉の本意を説いていこうかと思う。とはいえ、オイラ自身の感覚的なモノであって、ガチガチに教学をやってる古参の学会員からは噴飯モノの解説になるとは思うがw

では、そもそも“人の振る舞い”とはなんぞやって訳だが、さっきも記した通り“人間らしさ”というものを端的に表した言葉であり、その極意とは、自分らしく、他人の誹謗中傷に惑わされない態度を示し続けることを意味します。つまり、どこまでも“対等に敬う”姿勢であり、お互いの信頼関係を一緒になって築き上げることを“人の振る舞い”という一言で表してるのです。その“原点”とも言える態度は、法華経不軽品で説かれる、不軽菩薩の態度です。

不軽菩薩は、ありとあらゆる人々に対し、“尊極なる存在”として呼びかけ、頭を下げた…しかし、多くの人々は、その態度を不気味がり、いろんな意味で“変態”として扱い、時には暴力行為で威嚇した訳だが、その度に紙一重なトコで躱し、大声で“それでもあなたを敬ってます”と叫んだという。しかし、この態度こそ重要な訳で、最初は“キモい”と嫌ってた人も、ある時からその態度の本質に気付き、他人からバカにされてても、自分の信念を貫き通す事の難しさや、一見するとつまらない行為であっても、継続することに対して相当な集中力を要する事だと解ると、いかに凄い事だったのかを思い知らせた訳である。そこから転じて、“相手を敬う”ということは、自分自身の価値観を向上させる一因であり、それを他人に対して強要する行為は、本末転倒な話…って訳になる。

ここが重要な話で、高齢者や身障者が“自分は弱者だ”と声高に叫んでる態度は、とてもじゃないが“人を敬う”という慈悲の行為を強要するような態度であり、当然ながら自分自身の命の価値をも落とす所業である。さらに言えば、自分自身が他人に対して振る舞った行為によって、自分“だけ”ならともかく、時と場合によっては、自分が属する宗派や組織、家族や友人・知人の存在価値までも左右する可能性がある。が、本当に分別が解る人であれば、故の“ツッコミ”ができる訳であり、“坊主憎けりゃ袈裟まで憎い”という諺が、いかにバカバカしい批判か察することができる。つまり、どんなに政権与党が妬ましいからと言って国会運営を放棄するような態度は、国民の信頼を裏切る行為であると同時に、その態度を改めずに批判してる事自体、自分自身の価値観を暴落させてるようなモノである。また、いつの時代でも若年層(この場合は子育て世代)は苦労が絶えないのは、その親世代が理想とする社会にしようとして無理難題を押し付けてるからであり、また、そこをクリアするために技術革新や効率のいい作業動作をやってることを批判している時点で、これから自分達が世話を受ける側でありながら相手を愚弄してる訳であり、故に親であっても子孫から“捨てられる”のである。もっと酷い言い方をすれば、歳を重ねてもガキはガキであって、敬うべき老人でもなければ、生きてる価値もないクズと若者にバカにされて当然な訳である。

ここんトコの高齢者によくある傲慢な態度の多くは、ほぼ半世紀前の学生運動のノリであって、それで苦労してるのが自分の子や孫であり、後輩達だってのに気付いてない人が多い。また、終戦後の苦労話を持ち出す人も、大概はリアル体験であるが故に“歴史”としての変遷をイマイチ理解できてないトコがある。戦時下から終戦時の“国民総餓死寸前”の正体は、メディアと政権を握ってた軍部が結託し、情報を操作した結果、多くの民衆が“現場の状況”をわからないまま情報を鵜呑みにし、自分で考えて行動することをやめたからこそであり、そこを批判して獄中に放り込まれたのが、創価学会の二人の会長である。そして命を賭して獄中から叫んだ誓願こそが、現在の創価学会の“原点”であり、根底に流れる“血脈”なのである…自分の命の価値を創造する団体として、日蓮仏法の正しさと、その教えに則した生活の有様を、世間に呈することで社会を変革するきっかけを作るのが、学会員それぞれの生き様であり、使命である。だから、本当に“尊い人”と思えるなら、たとえどんな過去を背負っていようが、どんな身分で学歴がどうであろうと関係なく、生涯にわたって“敬える存在”として仕えることができるのであり、逆を言えば、世間がいうほどの高学歴や地位を確立できた相手でも、それを強調して脅す様な態度の相手には、当然ながらガン無視もアリである。そこんトコが、日顕宗の“態度の悪さ”からの敵対行為に発展した元凶と言っても良い訳であり、権威主義に陥った組織がなぜこうも纏まらないのかという“答え”がそこにある。(ま、その檀家集団である“顕正会”が、学会員や他の宗派の信徒に対して、ヤクザ紛いな態度で脅す事件が頻発してるのも、法主の“無価値な権威”に脅されての話な訳で…w)

だからこそ、“人の振る舞い”とは、自分が持つ価値観そのものを押し付けて脅すような行為は恥ずべきであるということであり、どんな立場であっても、そこで“戦ってる”以上は、誰もみんな“尊い”のです…故に“対等”な立場で話す機会を設ける必要があり、その場において、既存の地位や価値観を持ち込むこと自体、非常にナンセンスな話なのです。高学歴?億万長者?名家の血筋?経験値?そんなの、“ここ”で関係あるかい?例えば、競馬場へ来る観客だってレースが始めれば、上下貴賎なんて関係ないよ?もし、本当にそれが“関係ある”っていうなら、よく考えて…それは“何”で区別されてるんだっけ?馬主?調教師?騎手?報道記者?カメラマン?イベント出演予定のタレント?裁決委員?それって、全部“役割”であって、例えば本物の馬主になる条件こそ一定の資産を保有してないと無理だが、POGや法人クラブ会員でも“馬主”名乗ってる人いるでしょ?あれと同じw “競馬場”って言っても、農水省出先機関でもあるJRA自治体が運営する地方競馬だけじゃなく、地域のお祭りや観光牧場などがやるレースだって“競馬”である以上は、そのコースは“競馬場”である。(馬券発売はないけどなw)当然ながら、いわゆる“草競馬”の類なら、JRAやNARが発給する騎手免許なんて関係ないし、所謂“八百長”だって馬券発売がない以上(てか、神事としてやる競馬の場合)は無問題。つまり、“価値観”そのものってのは様々な状況で変化するモノであって、常識そのものが覆されたとしても、別段驚くモノではない。だからこそ、様々な可能性や思考があって当然であり、故に“尊い”と賞賛することは、自分自身の“命の価値”そのものをも向上させることになるのです。