迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

メディアが作り上げた“宗教テロ”という犯罪の正体…

いわゆる“オウムテロ”から23年過ぎて、主犯格が法に基づいて処刑された訳だが、はっきり言ってしまえば、この事件、主犯格連中の“大勝利”であって、どの結末であっても、当事者にしたら“信念に殉じた”だけで、そういうことを逐一報じてるメディアこそ、実はこの事件の“真犯人”でしかない。なぜなら、連中の“本懐”は、永久的に自分の名を、組織の存在を“世間に遺す”ことであって、無視していればどうってことない話なのに、そういう訳にいかない様な“事件”をやったことで、すでに本懐は遂げてる訳であると同時に、“人間”としての役割を捨て、神仏にでもなったと思った上で“下賤なる人間”に殺されることで“殉教した”と、支援者に対して示した訳である。確かに、“宗教”の原理上から見ればそういうことで通用するかもしれんが、それこそ“宗教”そのものを“愚弄”した態度であり、“相手を敬う事”を学ぶ場でなければいけない宗教哲学を、それこそ“自己の理想”のためだけに“悪用”した“腐れ外道”な態度でしかない。

かつてメディアは、事ある毎に創価学会を叩いた訳だが、その所作で一番“望んだ結果”とは、実はこのテロリスト連中と同じことが起きる事であって、その度に公選法破防法を“理由”に、学会員相手に、いろんな意味で喧嘩をふっかけてきた…が、多くの学会員がその挑発に対して、殆ど相手にしなかった。その背景にあるのは、日蓮仏法における“御書”の教えに、どんな侮辱を受けたとしても、それは前世の罪が残ってるからこそのモノであって、仮にそうでなくても、法華経を受持してるからこそ、本物の行者であるかを試すための試練だと、様々なトコで指導してる。故に、その“試練”は、正しく法華経の行をやってる証左として現れるモノと認識し、挑み続けることを止めない…という心意気を示し続けた訳である。創価学会が説くトコの“成仏”とは、どこまでも“人間”であることへの自覚と、それ故に、いかなる相手であっても“敬う”という姿勢を示し続ける事に他ならない。そのための“対話”であり、そのきっかけは、いかなるモノであっても、自分自身が“相手”が本当に欲してるタイミングを逃さない限りは“成立”するとしてる訳である。だから、会合に誘ったり、聖教新聞の購読推進をやったり、SNSなどで人生相談を受けたり…といった活動があるのである。その地道で、一個人としての成果としては地味過ぎることでも、組織全体で見た時のインパクトは、畏怖の念を抱かれてもおかしくない程のモノとなる。故に、世界中の…それこそ果てまで行っても、必ず学会員(=SGIメンバー)がいるという現状がある。

メディアが一番欲した映像…というより“情報”は、創価学会が“テロリスト”となる様であり、イスラム教の一部過激派やキリスト教を模したカルト組織同様の、武装化した“危険分子”としての姿であって、現在の様な対話や慈善活動に奔走する姿なんて、一番報じたくない“真実”である。だから事ある毎に“テロ組織”という捏造を繰り返してきた訳である…が、阪神大震災以降、その見識が誤りであることが明確になり、日顕宗との確執から起きた、俗に“C作戦”と言われる騒動以降は、メディアが大ぴろにデマを流すことが減った。(もちろん、背景には、そのデマ情報を流す主犯が病死したこともあるんだが…)むしろ、学会以上にカルト過ぎる存在が現れ、自分達が思い描く“宗教テロ組織”という、これほど“美味しい存在”が出た事によって、日本が宗教テロで潰される様を報じたい輩で、メディアが占拠された訳である。それが今の日本のメディアの“病巣”と言える部分であり、その更に裏の部分を考察すれば、半世紀以上前の“学生運動”を支持した者達の影が見える訳である…彼らの最終目的こそ、民衆を愚弄化し、特権階級以外が生き残れない世界であり、その“理想郷”こそが、北朝鮮の姿であるとすれば、これほど宗教の本質をバカにした割に、一部の指導者を神格化してるあたりがカルト過ぎて、愚かに思えて仕方ない。

共産主義と宗教は、実は密接な関係があって、そもそも、宗教哲学を基に互いの存在を認め合い、協力しあって社会を維持することが前提にある。故に、欧州系の共産主義キリスト教の聖書を基軸にやってる訳であり、中東圏の共産主義は、イスラム教の教えが根本となる…独裁型共産主義でも民衆の自由が保障されているトコほど安定した政権運営になりやすく、逆に杓子定規な運営は、大概崩壊している。むしろ、中東やアジアの共産主義が上手く機能してるトコが多いのは、そもそも、そういう意識の下でやってるのではなく、絶対王政…即ち、宗教上の戒律に即した生活を基本としてるからこそ、その戒律上の“指導者”に対する服従と、“指導者”もまた、配下の民から寄せられた期待や要望を裏切ってはいけないという戒律上の制約において政治を行う義務がある。だから、宗教哲学に則した共産主義に対する抵抗もなければ、それが“普通”のあり方として、今日まで続いてる訳である。対して、欧州の共産主義は、その肝心の宗教哲学を排したトコにあり、その一番の原因は、キリスト教そのものの堕落と腐敗からの不信感から来る訳である。レーニンが説く“宗教は麻薬”の本意も、実は宗教哲学そのものを無視して、私利私欲に走る聖職者を皮肉る意味があった訳で、故に東欧諸国の多くが、いかなる宗教に対しても批判的だった訳である…で、その結果、指導者を“偉大なる神”として崇める様な思想が跋扈する事になり、民衆の安寧なる生活よりも、私利私欲のために傍若無人を働く独裁者が次々と現れた訳である。どんなに崇高な理念であっても、それを用いる者自身が己儀を構えて圧制に走れば、必ず国家体制が崩壊するのはいうまでもなく、一見“成功”してる様な国家であっても、実際問題は為政者のしつこいぐらいのプロパガンダを民衆が聞き流すことで成り立ってるだけに過ぎない。

話を元に戻せば、メディアとしては“宗教テロ”こそ、この国を自分達の“理想郷”へと変革させるきっかけだとしてる訳だが、そんなことをしなくても、未曾有の自然災害や隣国間での紛争等といった要因があれば、その場面に遭遇した人々自身が次世代のために奮闘することができる訳であって、情報操作によるおせっかいは、正直“邪道”でしかない。まして宗教に関することは、日本国憲法が保障する“信仰の自由”に対して批判してるのと同意であって、戦時下の様な“国家神道以外排せよ”という意見は、宗教のみならず国民そのものを愚弄してるのと同じである。当然だが、宗教そのものを全廃できたとして、次世代を担う者に対して、相手を“信じる”ことをどうやって教えられるか?そこんトコの概念が抜けてる以上、結果として体制が崩壊するのは目に見えている…疑心暗鬼で他人を見下すことを是とする教育現場で育った人は、用心深い人格の割に、宗教が説く“信心”の話に弱い。だからあの時の若者…特に、自分の才能などを学歴のために全振りした人ほど、どこかで“褒めて欲しい”一心でカルトな方へと向かったのです…一番“信じられる存在”を求めるあまりに、冷静さを失って、世間を恨み続けた“指導者”に利用される事も構わずに。