迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

全部“教育”が悪い?!

正確に言えば、


日教組が悪い”


…ってことになる。ま、名誉毀損による裁判になる覚悟で暴言を吐けば、学校でのエアコン使用を禁じたり、炎天下で長々と部活やらせたり、医師やJOC等から推奨されてるスポドリを“ジュースの類”として禁じたりといった時代錯誤な話が頻発するのは、結局は教師自身が生徒・学童を見下した挙句、学校という名の“閉鎖空間”上で絶対的な主従関係で支配してるからである。しかも、社会に出てからも“主従関係”を維持するために、本来であれば教えるべき法律規約や社会の成り立ち、更にはそれを“読み解く”ための国語力向上や歴史(史実)の研鑽を、“大学受験に不要”と言わんばかりに、授業では“教えない”ことが多い。そう、公選法民法公営競技をやる国や自治体の“言い分”など、本来であれば、社会に出た時に役立つことや、知っていないといけない“常識”的な部分が欠如した若者(若年層の有権者)が増えた背景が、ここにある訳である。もっと言えば、“教育”という言葉を隠れ蓑にした“洗脳”が、日本の教育現場ではまかり通ってしまってる訳である。

そもそも“日教組”ってのはどういう団体なのか?本筋は教育者達の“労働組合”であり、教育現場の処遇改善や“働き方改革”の実現を目指す存在である…が、これは“表向き”の話であり、現実を言えば日本共産党に、ある意味直結してる集団である。だからメーデーとかの集会で、平気で“憲法改正反対”だとか、“米軍出ていけ”といった、就労者が掲げるべきスローガン(賃金上げろとか、休みよこせといった基本的なこと)を無視して政府批判に利用してる訳である。そういう連中が、公立学校の教員を務めていて、且つ、教育委員会の幹部を務めていたら、そりゃ、“子供の人権”を無視して好き勝手な行為を、教育現場でやりまくるのは当然の話になる。もちろん、校内でのいじめ問題が全然解決しないどころか、その犠牲者が増えても、教職員や委員会幹部が“責任”の所在を被害者遺族(=保護者)に押し付けたり、体調不良を訴える学童を“サボり癖が付く”として体罰を与えるなどといった“非常識”な指導をやるのは、全てにおいて“学校上の絶対君主”であると同時に“責任者は他人”という態度で今日まで来てる訳である。

何度もここで話でいるが、共産主義とは本来、基盤となる宗教哲学…即ち“人を想う”精神に立脚し、互いに尊重し支え合うことが是であって、そこから外れた概念は、邪義でしかない。しかし、それがまかり通ってる背景には、レーニンの遺した言葉の“誤用”と、宗教以上に先陣の“指導者”を神格化して、民衆に“服従すべし”とする、カルト染みた支配体制を是とした概念が、未だに残ってるからである。前者に対しては、ある意味で後者の態度を皮肉ってる様な話であり、故に後者は自分自身がやってる行為が、過去の轍を踏んでる事に気付いていないからこそ、“同じ過ち”が繰り返される度に、周囲の“他人”に責任をなすりつけて逃げるのである。

“宗教は麻薬”という言葉の本意は、いかなる組織も幹部が堕落し、信徒(=支持者)の施しが“常態化”する事で、慈善行為に対する“感謝”の気持ちが失われ、信徒からの意見や指摘を“過去の権威”を用いて“潰す”ことをやっていると、必然的に本来であればないハズの“上下関係(身分制)”が形成され、それによる“出自に基づいた支配”がまかり通ることになる…ということを端的に指摘しただけであり、その指摘を無視して“偉大なる指導者”としてレーニンを担いで神格化した挙句に、その“正統な後継者”と自らを据え置いたのがスターリンであり、そこから“ソヴィエトによる恐怖政治”が、今のロシアを中心とした東欧で拡大した訳である。しかし、ご存知の通り、こういう民衆を圧政した政治が100年も続いた試しがなく、また、アジアでコレをやろうとして失敗したのがカンボジアポル・ポト政権である。(逆をいえば、その数少ない“成功例”になりつつあるのがキューバの行政であり、その背景にあるのが、アメリカの白人至上主義に対する反骨精神的なモノであることだけは、覚えててほしい)

学歴至上主義がまかり通るのも、結局は“支配者になりたい”という願望と、だからといって“責任者になりたくない”という、一般人が聞いたら“ふっざけんな!! ”と叫びたくなる様なことを“平然”と行うためのモノであり、そこには、相手に対する“感謝”という気持ちも概念も存在しない。だから、学業に全振りした若者が“自分の価値”を世間からバカにされる度に卑屈になり、それを“褒める”こと、“認める”ことをやったのが“宗教”の名を借りたテロリスト集団だったら、そこになびくのは、ある意味で“必然”としか言い様がない…つまり、日教組という組織そのものが、“腐った共産主義”そのものを、いまだに“正義”として疑わずに今日まで活動してるモンだから、体調不良で体育の授業が受けられないって訴えても信じてもらえずに、炎天下の校庭を走らされたり、水分補給を禁じられたり、いじめがあっても“報告すんな”で一喝される…といった、“未成年の人権侵害”が学校内で横行する訳である。そんなことをやってる連中がジェンダーフリーだ外国人を差別するなとかいってる時点で片腹痛いし、そういった“暗黒の正義”を振りかざしてること自体、哀れで仕方ない。

“人を想う”“人を信じる”という宗教哲学上、最も基本で、最も重要な根幹部分をブチ壊しておきながら、それでも自己の正義以外“認めない”という態度で“相手”を支配しようとすれば、必ず衝突することが目に見えている。だから、幼い頃からの“教育現場”にて“洗脳”すれば、思い通りに社会を支配できる…その上、失敗の“責任”を実行犯になすりつければ、指揮官としての自分は処罰されないし、いくらでも配下の民を無駄遣いできる…こう考えるエリートが多いのが“間違った共産主義”の社会であり、指揮官が“責任を受け持つから、お前ら自由にやれ”って言える人がいないから、幕下は臆病になる上に“逆らえない”という幻惑に振り回されて組織そのものが腐敗するのである。だけど、それを“望んだ”のは、いうまでもなく日教組に属する教職員自身であり、深く物事を考えずに、疑いの眼を持たずに今日まで来たことで、極悪クレーマーモンスターペアレンツといったクズが量産されるのである…真の意味で“頭のいい人”とは、学歴ではなく、実体験から求められる対処法を実践し、多くの人に広めることができる人を指す。そこには、徹底して“人を想う”と“人を尊ぶ”、そして“信じる”ことの重要性を、様々な事柄から“学んだ”からこそであり、自分自身の価値観に対して、他人からの批判に“怯まない”そして“なびかない”ことに尽きる。その“訓練”の場が宗教の“修行”であって、そこが抜けてる以上、道徳なんてのは身につかない。授業で“道徳”をやっても意味がない最大の“理由”が、教職員が目の前の学童の“人権”そのものをバカにしてるからこそである。学童・生徒は、教師の“奴隷”ではないし、仮に“奴隷”として扱うなら、その“管理”に対して“責任”が生じる以上、体調不良やいじめの事案に耳を傾け、対処するのがスジである。それが“できない”のであれば、その時点で“管理者失格”であり、教職員である必要もない。