迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

菜食主義者の勘違いを、農家目線から糾す話…

今日から、条件付きといえど、ネットの更新作業ができる様になったんで、ボチボチとリハビリがてらにネタをやってこうと思う。ただ…以前にも言った通り、毎年恒例の“命日企画”は、使える機材の都合で今年は中止です…ご了承ください。

さて、今回は、ちょっと海外でいわゆる“菜食主義”を標榜してるテロ組織が、食肉文化撲滅を目指して精肉店やファーストフード店等を襲撃してるというニュースが目に着いたんで、そこに対する軟弱野菜栽培農家から、皮肉を込めて一言…

その野菜、獣の血がなきゃ育たない!

誤解がない様に言えば、如何なる植物も、動物の死骸や糞尿を由来とする有機物無しでは育たないし、そうしないと、いつまで経っても死骸や糞尿が“その場”に留まったまま、不衛生な環境になるという事…つまり、如何なる生物も食物連鎖というサイクルに基づいた処理を経る事で、一定の生命維持が保持されるのであって、その理を否定する事は、生命尊厳をも脅かしかねない愚行なのです。言葉が汚いですが、弱肉強食は必然の“悪”であると同時に、その“犠牲”の上に生命尊厳は尊重されるモノであり、故に仏教の“不殺生”という戒律が存在する訳です。

この“不殺生”という戒律を誤解してる人が非常に多いのが先鋭化した菜食主義者で、動物愛護を訴える市民団体とほぼ同じで、自己の正義の前において、それを受け入れられない者は潰しても構わないという矛盾を標榜する訳です…言っときますが、“不殺生”の本懐は、“自らの手を血で汚さない”って事であり、暴力や破壊活動の正当化する言い訳ではありません…言い方を変えると、供養として受け取る品々の中に、加工肉や皮革製品、絹や羊毛などで作られた装束があったとしても、信徒の“真心”からのモノである以上、受取拒否をしてはいけないのであり、逆に、どうしても鮮度の良い魚を食べたいからとか、厨房内に発生した害虫駆除を、自分でやる事を“禁じ”てる訳です。

NHKEテレで、毎月最終日曜に放送してる、『やまと尼寺精進日記』という番組…桜井市にある音羽山の尼寺に住む、3人の尼僧(一人は正確には尼僧じゃないが…)が、創意工夫で四季折々の精進料理を、参拝者や信徒に振舞ってるんだが、時折、“生臭料理”に手を染める事がある。しかし、それらも信徒や参詣者からの頂き物であり、それを大事そうに食す場面も紹介している。精進料理といっても、完全なる菜食料理ではなく、市販の合わせ出汁を使う事もあるし、自家製ヨーグルトやクリームチーズが振舞われる事もある。つまり、野菜や米、豆類だけじゃなく、麓で生活支援を行なってくれてる信徒から“供物”として受け取った物であれば、それが川魚であろうが乳製品であろうが関係なく、彼女達が調理した時点で“精進料理”として供されるのである。もちろん、“不殺生”の戒を破る行為である以上、それに似合うだけの“供養”をやっての話だ。

食肉文化を野蛮行為と罵るのであれば、農業は非常に業が深い職業であり、故に“底辺産業”と蔑むのも無理ない話だ…だが、全ての“食”は元々、安定供給が確約されたモノではなく、“いつ食べる事ができるか”が見通せない狩猟生活からの教訓として生まれた“産業”でもある。山野草やキノコ類、果実は、その多くは収穫の時期を誤れば、そのシーズンは“食べられない”代物となり、だからと言って備蓄用として乱獲すれば、後世に対して枯渇する事になる。アイヌの食文化でも、必ず後世…来期以降の収穫を確保する為に、例えばオオバユリの根を収穫する際は、種苗用と食用に分けた上で、採取地点に種苗用を残す。子熊を捕獲したら、最低1年以上飼育した後に、“イヨマンテ”という儀式を行って屠殺する…熊の御霊を“神の世”に送り出し、残った肉や毛皮を加工するのである。如何なるモノにも“神が宿る”という概念が、アイヌも含めた日本の文化の根幹にあるからこそ、農林水産業を営む家には、それこそ神仏信仰が普及する以前から、森羅万象を対象とした畏敬の念があった。当然、如何なる宗教哲学においても、その恩恵は全て、平等にして貴賎上下を有する事に非ずとしてる訳であり、故に、菜食主義者が自己の正義以外を断罪する事自体、その理を破る不届者となる。何度も言うが、畜産も含めた農業は、自然界の理を破壊した宿業であり、本来ならば、養殖以外の漁業よりも、まして林業従事者よりも“下賤なる者”とされてもおかしくない…だが、それ故に今日の食文化が維持され、多様性を示せるのであり、菜食主義もまた、その“多様性の恩恵”の中にある存在でしかない。それが理解できないのであれば、どうか、農家が作った野菜や果物を食べないでくれ…否、如何なる食事も口にしないでくれ。他者の食事を邪魔する以上、分相応に宿業を背負えない人に施せる程の“食糧”は、この世にはないから。