迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

血縁者であっても他人は“他人”

SNSで、真贋不明ではあるが、こんな話が流れてたw

 

学会員感覚で言えば、“折伏”を理由に他宗派…特に創価学会を排斥しようと躍起になってる宗教団体の長の子息が、“宗教的理由”から反抗して、組織から離脱してる時点で因果応報な訳であり、むしろ“正しく宗教を理解してんじゃん”と褒めてやりたい話であるw

 

宗教の本懐とは、どこまで行っても“心の拠り所”にして、正邪を見極めるリトマス試験紙的な存在である。故に、“来る者拒まず、去る者追わず”が鉄則であり、信心根本で組織に属する者であればある程、信仰心で意固地になるのはともかく、だからと言ってその“正義”を安易に振りかざすのは“邪道”なのである。言い方を変えると、他宗派・他民族の風習や慣例を頭ごなしに否定したり排斥する行為は、却って相互理解の阻害になるとされる。これは日蓮大聖人自身も、五重相対(ごじゅうのそうたい)をもって指摘してる部分であり、特に“内外相対(ないげそうたい)”は、自分の言い分が本当に“正しい”とするなら、他者の異口同音を参考資料として提示すべきであり、また相手の言い分が“正しい”と思ったら、自分の“正義”と照らし合わせ、差異がない事を認めるのが筋である…としてる。故に、“御書”の多くは、法華経のみでなく、多種多様な仏典や、儒教等の他宗派の哲学を引用し、法華経の行者としての生き様を説いている訳である。

 

これは何も、宗教に限らず、あらゆる組織内で言えた話で、外部の人間から不正や違法行為を指摘されても、それがどうして“いけない事”なのかがイマイチ理解できてない人に説教したトコで、その寸志を改められるのは稀であって、大概は内輪において“不正ない”として処理されるか、外部へ告発した“戦犯”を探して“晒し上げ”するのがオチである。しかし…そういう組織というのは、遅かれ早かれ崩壊するのが“お約束”であり、栄枯盛衰の理とは、まさにそういう“組織腐敗”そのものを指す。そして、その方向性が内部分裂によるモノか、外部・第三者に手によって粉砕されるかの差であって、どっちに傾いても悲惨な最期しかない。

 

栄枯盛衰の理は、もう一つの側面から見た時、決して“絶望的な状況”を指しているのではなく、様々な“可能性”が提示さてた上での“選択”であり、永続的に存在し続ける組織とは、単に伝統を守るだけでなく、様々な“可能性”に賭けて挑み続ける姿勢を決して崩さない…だから、一時的に経営難になろうが、次期指導者不在から空中分解しかけたとしても、必ずそこから這い上がって、再び存在感を示すことができる。任天堂が海外で畏怖の念でゲーム業界に君臨し続けられるのは、人気コンテンツを有してること以上に、他の業種から見ても、企業としての歴史が連綿と続いてることが大きい訳である。地味に歴史がある企業ほど、単に古い技術を維持してるのではなく、そこから生き残りを賭けて、様々なことに挑戦している…もちろん中には、それ故に業績悪化したことがあっても、それで元の組織が潰れたとしても、必ずその関係者が威厳を復古させるために躍起になって、故に大成する…一過的な“失敗”を攻める人が多いが、それは以前にも言った様に、他人だからこその“嫉妬”でしかない。嫉妬に狂う人程、他人を貶めるために躍起になって、自分自身を向上させようとする気がない…いわゆる“現状維持”に甘えて、鍛錬や研鑽を怠った姿こそ本物の“敗北者”であって、それを認めることができないからこそ、自分より優れた才覚者を、自分より若い実力者を、過去の栄光や経験、安いプライドを振りかざして脅すのである…だが、弱肉強食の理は、自分の現在進行形での“立ち位置”が間違っている時点で逆転するのであり、仮に自分が得意とする分野で傍若無人を働いても、それが通じるのはその分野のみであって、他の分野が疎かであれば、故にボロカスに批判されるのは当たり前である。

 

だからこそ、“外に出て反抗する”ことも、“組織内で担がれる”ことも、自分自身が冷静に、自由に対して責任が持てる以上は、自分の意思で選べる訳であり、他者がそれを批判し、侮蔑して見下すのであれば、故の報いを“当事者”が受けるだけ…さて、いつになれば人は、自分自身がやってる功罪に対し、素直な気持ちで認めてやることができるのやら…