迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

死生論を語る上で、幸福の価値観は基本理念。

“死んだら負け”とか“逃げたモン勝ち”とかいう概念じゃ、自殺もいじめも減る訳ない…個人レベルでの“幸福感”という価値観の下において、そんなモノは陳腐で他人事でしかない。だから、同じ自殺者でも、一見苦悩した姿に映っても、当事者自身が“安堵”を得るためにやったことである以上は、そこに至るまでの不幸を理解できてないと意味がない話であり、死生論に立って勝敗を決めつけること自体、結局は死者に対する生者の僻みでしかない。

 

“生きてるだけで丸儲け”なんて思念も、人生の苦難をも楽しめる余裕があってこそ言える言葉であり、苦楽を合わせて人生だと悟れる人には普通の概念でしかない。逆に、生きてること自体が苦でしかない者にとって“死”とは甘美な桃源郷であり、故に何度もイメージする…如何にして他人に悟られず、誰にも相手されずに消え逝く事ができるかと。

 

しかし、生老病死の理とは、常に“他人に迷惑をかける”という前提条件がある。新たな生命としてこの世に生まれ来る時、哺乳類であれば必ず、母となる者の肉体を傷つけながら、場合によっては、その命を奪って現れる。鳥でも、魚や虫でも、繁殖期はまさに命懸けであり、そこまでして生まれた生命であっても、次世代の者として生き残れるかどうかは、まさに運任せ…捕食者によって奪われる命もあれば、先天的な疾患や感染症で絶える命もある。その篩い分けを掻い潜って残された者だけが、歳を重ねて老いる事ができる。“永遠の命”と言われても、そこには限度がある…“魂のルフラン”の歌詞ではないが、“限りある永遠”とは、まさに生老病死の理そのもののサイクルである。

 

いかなる生物にも、終焉の時は来る…種としての終焉を遅らせるために繁殖行為がある訳で、そこを嫌えば、その血脈は途絶える。しかしそれは、自らの意思で選べるなら話は変わってくる訳であり、血脈自体も自分で“終わらせる”意思があってやってる分には、気にする必要はない…他人がガチャガチャ言ったトコで、当人が選んだ“幸福のカタチ”がそこにあるなら、それは“他人のやっかみ”でしかない。当然だが、子育てにしろ、介護にしろ、人それぞれの選択肢の下で決めた幸福のカタチがそこにあるなら、どこまで自分が“他人”に対して犠牲を払えるかということになる…つまり、“家族”として自分の人生を“我が子”や“両親”といった“血縁関係ある他人”に対し、どこまで時間的な余白を割り当てるかが問題であり、これが“夫婦”となると、完全に血縁も何もない“他人”同士での生活となる。故に、一緒にいる時間をどこまで共有し、別々でいる時間をどう割り当ててやるべきかをきちんと決められない様では、必ず行き詰まってしまう。

 

それが“苦痛”だと感じる程、現代社会は繊細で歪な状態になってる訳であり、だからこそ、自分自身の居場所がないと感じた時点で、既に自分自身の価値観を見失い、他人の価値観に振り回された挙句、疲弊する訳である。その結果による“自死”は、逃避ではなく安堵を得るための選択肢であり、自己の“絶対幸福”という価値観に基づいての答えである…それによって“誰か”が傷付くとしても、そんなのは当人に関係ない。だから、自殺者に中には、その死に顔が穏やかな表情だったりする事がある。それは、如何に“生きる事”自体が当人にとって苦痛であり、精神的にもしんどかったかを思い知らされる“決定的な証拠”である。大病を患い、治療の甲斐なく亡くなった人の表情でもそうだが、そこの“安堵感”がある限り、当人にとって“死”は不幸ではなく、辿り着けたゴールに対する“幸福の証”である。逆に言えば、どんなに長寿で大往生だったとしても、その死に顔が苦悩に歪んでいたら、“幸福な人生”とは言えない…自ら“死にたい”と願いながらも、勝手に死ぬ事すら“許されなかった者”の苦悩が、そのまま姿を現したモノとして、相に出るのである。

 

人生をやりきった人に年齢や人種、宗派的思想なんて関係ない…ただ“絶対的幸福”という共通理念の下において、本当に当人が納得した上での選択肢に、他人がどうこう文句言う必要などない。もし、天秤に掛けて物事を判断するなら、“自分にとっての幸福”と、“他人にとっての幸福”のどっちを“優先”すべきかを考えた上で論じるべきである…それにより生じる“不幸”を、自分自身が受け入れ、耐え忍ぶ事ができるのであれば。