迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

公平・対等とは、条件次第…

先に結論を言えば、いかなる差別も、結局は他人よりも“特別”な存在でありたいと願う事と、故に“同じ待遇”を望むから生じるモノであり、自ら望まぬ侮蔑や屈辱は、一切有り得ない…つまり、如何なる栄誉も功績も、その“裏”を返せば、その分野以外の部分で非難中傷を受けてる訳であり、万民から無条件で愛される存在とは、その逆は嫌われ者としての一面も存在してこそな部分もあるってことになる。

 

どんな場所でも、“公平”と“対等”を求める声が上がるが、そもそも、その“条件”を飲むか否かで答えが変わるのであり、“条件”が合わないのに関わらず、無理に関わろうとするから“不公平”な扱いを受けるだけである。もっとも、特別な存在として扱われたいというなら、話は別な訳で、その“特別”の意図を理解できてないと、結局はその勘違いな態度が原因で、折角の機会を台無しにしてしまう事になる。つまり、“特別”とする理由が何なのかを理解すると、それゆえの“屈辱”を覚える場合もある訳であり、また、それを“辞退する”と意思表示する事で、相手の接し方が変わるのは、そういう事である。

 

さっきも書いたが、“条件”が違えば、その分相応の対応が求められる訳であり、それが“できない”のであれば、条件に見合う者からすれば“邪魔”でしかない。だからハブられる訳であって、自分が相手から提示された条件に従うのであれば、そこに不服を言ってはいけない。但し、この“条件”そのものが法令違反なら話は別…それこそ、秩序を乱す行為を他人に押し付けてまで、他人の人生を蹂躙する筋合いなど、何人たりとも有してはいけないのであり、もし自分がそういう無茶振りを他人に要求したら、その報いは必ず、自身も何らかの格好で受ける事になる。即ち、これこそが“不幸は自らが望まぬ限り訪れない”という法則であり、ある意味で誤ったカタチの“願兼於業(がんけんおごう)の姿なのである。

 

身障者だけの国際競技大会であるパラリンピックが、オリンピックの後に行われるのも、原則として身体に何らかのハンデを抱えた人と、五体満足で心身共にに問題がない人が同列で同一競技をやったとして、その“結果”に不平不満が出るのは、火を見るよりも明らかで、そもそものハンデが違えば、同じ競技でも“使える機材”の差で結果だって大幅に変わってくる。同じマラソンでも、車椅子ランナーと視覚障害で伴走を要するのと、通常のランナーでは当然ながら、条件そのものが違いすぎて、同時スタートでやる事自体が危険である。(ホノルルマラソンでも、レース前日に車椅子部門のレースが組まれていて、車椅子と一般ランナーの接触による重篤な事故を未然に防ぐ対策が取られる程、車椅子のレースは、アスリートクラスになると激しいモノになる…冗談抜きで)だからこそ“分けている”のであって、単一化すべきという意見は、気持ちとしては理解できるが、“無理”と言わざる得ない…

 

だけど、“その世界”の中で一流とされる人が、なぜ他方では馬鹿にされるのかを考えれば、自ずと答えは見えてくる…賞賛されたいのに、その“条件”が違うからこそ馬鹿にされるのであり、その“条件”を知った時、初めてそれは途方もない“無礼”だと認知できるモノである。条件を“知らない”からこその“無礼”なれば、当然ながら条件を知るためのチュートリアル(解説)が必要なのはいうまでもない。そこを面倒臭いと拒絶してる以上、マナーレスが増えるのは無理ない話だし、まして“公平な扱い”なんてできる訳がない…無知を“無知”のままで放置せずに、常に学ぶ姿勢を忘れない様にするのが、学校での“勉学”の本意なのです。昨今の教育現場は、その肝要を忘れた内容が多過ぎて、学びの場で混乱してる子供が気の毒で仕方ない。