迷馬の隠れ家 はてな本館

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いじめを受けたら“やり返す”のが原則…w

タイトルを見てキョッとした人…ま、感情的に正常ですw しかし、文章だけ見て判断する人は、正直、浅はかで思慮深さのない人だと思うし、哲学の観点から見たら、相当イヤな思いをした人なんだろうと推察する事ができる。“やったらやり返す”のは原則…でも、原則には必ず“例外事案”ってのが存在し、そこを弁えずにゴリ押しすれば、必ず問題が拗れて“最悪の結末”しか残らない。それを受け入れられる人だけが、いじめに対する“報復行動”を取って良い訳であり、その“報復相手”を間違えてはいけないのである。

 

以前にも解説したが、儒教における上下関係において、“被害者”は“加害者”よりも庇われて当然としてるが、それはあくまで相対関係にある状態だからこその話であり、それを“理由”にして、当事者以外の存在に対して、報復行動や横柄な態度をとれば、途端にその関係は“ご破算”となる…つまり、“被害者”としての立場を“放棄”したと見做される訳である。ココを勘違いしてる人が多い事…特に、人権擁護を訴える市民団体の幹部とかw

 

閑話休題…“いじめの報復”をやるには、3つの“条件”がある。それは、

 

・“自分”に対して本当に“価値のある行動”であるか

 

・報復すべき“相手”の“何を奪って良い”モノなのか

 

・“対等な存在”として認めるか

 

ここに尽きる。特に子供の時のいじめの多くは、そういった“人生の価値観”を知らないままやってるが為に、大人が頭ごなしに叱ってもわからないし、ましていじめを苦に自殺しても、遺族はともかく、主犯格にその“痛み”が解ることなどない…時が経ち、“真実に触れた際に、それを理解できたとしても、すでに“相手”がいないから、いくら泣き叫ぼうと、反省の弁を述べても、“あの日”は戻ってこないし、その“事実”は、当事者全員が墓場まで…否、来世の後生まで背負う宿業として残る。それがどんな“結果”として出てくるかは、誰もわからない…が、必ず“それ”は、自身の生命の奥底で燻り続ける事になる。

 

社会人のいじめもまた然りで、子供と違うのは、そこには自分自身の“存在価値”を賭けた、つまらない“勝負事”が孕んでる事が多い…つまり、分不相応な立場でも、“生活のため”という大義名分を振りかざして、周囲に対して阻害する行動に走る訳であり、その態度が、いかに“幼い”かって事に気付いてないから、他人…しかも技能や知識が優れたる若者や職人が、“自分が与えた仕事”を“勝手に断る”事が許せない様になる訳である。特に日本人は、この気質が強いから、どうしても“長いモノに巻かれろ”がまかり通ってしまいがちになる。(ま、この諺の元の意味は、全然違うんだけどな…)

 

つまり、いじめを受ける度に、“加害者”に対しる怨みが積もるが、それに対して殺意を抱くには、相手の“人生”そのものが、分相応の“価値”があるかどうかであって、そこを鑑みずにやっちまったら、それこそ自分自身の“人生の価値”がダダ下がりになるのは当然だし、特に子供の時のモノなんてのは、多くの場合は自己満足のためにやってるというより、周囲の大人に“構って欲しい”からこその“問題行動”に過ぎない。それこそ“誰でも良かった”な話で、いじめた相手が“反撃”しないことを良しとしてる子供の場合、その“両親”を見たら、どんな“家庭”なのかがよくわかる…オイラの経験上だけで言えば、大概は父親が地方議員で嫁さんにワンオペ育児を強要してたり、両親ともに教員で祖父母もそれを自慢するあまりに、ある意味で育児放棄状態だったり、テストの成績以外興味ナシな町医者の家庭だったり…といった“裏事情”が透けて見える訳で、こういう家庭事情を抱えた子から攻撃を受け、やり返すと、大概は更に酷い目に遭う…が、その“理由”自体が自分が“叱られた”のは“お前のせいだ”という言いがかりであり、分相応の“痛み”じゃないのに大袈裟に騒いで“被害者”と“加害者”の関係をひっくり返そうと躍起になってるだけである。“相手”が透けて見えると、いじめそのものが苦になる事などないw だって、自分と相手の関係が“対等”な存在として、無意識のうちに“認めてる”から攻撃するのであって、その“関係”を断ちたいなら、無理にこっちが付き合う必要はない…これも“いじめに対する報復”のあり方であり、ぼっちでも苦にならないほどタフな神経になれば、自ずといじめを仕掛ける輩は、“自分の居場所”を自ら失う事になる。

 

“やったらやり返す”とは、どこまでも“相手”の存在を“自分が認める”所作であって、“存在”を認めないなら、何も“相手”になる必要などない。“自分”と対等なる存在として“認めてる”からこそ手を出した以上は、分相応に付き合ってくれる“腐れ縁”として忘れてはいけない。それが“怨み”の本質であり、もし“被害者”がそんなことすら全部“忘れた”と笑ったら、それは今までの行為が“無駄”だったと思う方がいい…“加害者”としてすら“存在を認めない”という意思表示だからだ。逆を言えば、“加害者”が“被害者”の存在を“忘れる”ってことは、そういう“出来事”すら忘れ去る事で贖罪したと勘違いしてるだけで、単に報復を恐れてるだけである。ま、双方が“忘れた”方が、互いの幸せを潰し合う馬鹿げた結末を迎えずに済む訳なんだが…。