迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

My favorite announcer vol.64

久々っすね…本家でのコレ。きっかけは何であれ、コレをやる以上は、気分的に襟を正して、正面から紹介するのがスジというモノ。つー訳で、久々の“My favorite announcer”シリーズは、一部“ブロマガ”と連動してやることにします…彼自身も、競馬実況をやってましたからw

 

てことで、今回取り上げるのは、板倉俊彦アナの話…“次は新福島”って番組に同期の青木和雄アナがゲストとして登場した際に、近況を話してくれたのだが、残念なことに、彼はすでにこの世にはいない…2年前に、吉野の桜吹雪となったとのことである。

 

いろんな意味で彼は不遇で、とにかく“屋根裏ナレーション”なポジションが多かった。見た目のスタイリッシュさが売りの青木アナ、大阪(河内)弁で押し捲る角淳一アナと同期だった事も含め、とにかく“平凡”なイメージしかなく、だけど、ナレーションやニュース原稿を卒なく読みこなす声は、低音で力強い声だった。ただ…あまりにアナウンサーとしては“理想像”なモノであっても、ゆえの没個性が仇となり、使いどころが難しく、バラエティーやスポーツ実況には“使えない”代物だった。感情を表に出さずに、淡々と情報を流すだけなら、別にアナウンサーでなくても、今の時代なら、AIに音声データを組み合わせる事でできる事だからだ。

 

しかし、若手時代にはそれでも、競馬実況のマイクの前に座った経験がある…薫兄がデビューする以前、今ほど競馬が毎週重賞がある訳じゃなく、単発での放送がデフォだった頃に、双眼鏡を構え実況に臨んでいるのである。ちなみに、MBSが現在のように毎週競馬中継を行う様になったのは、薫兄が正式に競馬実況専門となって以降の話であり、それまでは現在でいうトコのGⅠ開催での単発が普通の放送形態だった。(だからこそ、ラジニケが第2放送での関西主場からの中継を整備する必要があった訳で、守タソやニャオキが“地元採用枠”だったのは、そういう経緯がある…と推測される。)とはいえ、単発放送で、しかも他のスポーツ実況の経験が乏しい若手が拙い競馬実況をやればどうなるかはお察しの通りで、その恐怖心から、自然と競馬場から足が遠のいたと考えると、不憫でならない。(逆を言えば、それに物怖じせずに、むしろ堂々と競馬実況で名を馳せた薫兄の方が‹バケモノ”だったという事w)

 

だからと言って、報道番組の担当ができたかと言えば、これまた不遇なことに、後輩で競馬実況もできる平松元大阪市長がいた訳で、“MBSナウ”のキャスターにすら選ばれず、“あどラン”が放送開始するまで、正直存在が空気過ぎた…だが、“空気過ぎた”からこそできたモノがある。それは、オイラぐらいの世代で関西在住なら一度は学校で見たことがある番組、“私たちの近畿”という、社会科の教科番組でのナレーションとレポーターである。以前にも解説したが、MBSがテレビ放送免許を取得した際、その“条件”として郵政省(現在の総務省)からの指示で、番組全体のおよそ3割は、教養系のドキュメントや解説番組を制作し放送することが義務付けされていた訳で、この関係で小学校の授業用番組を制作してた訳である。オイラぐらいの世代だと、小学5年生になると、NHKの番組ではなくこっちを見てた訳で、番組そのものも近畿圏の教育委員会からの依頼ということで、この時間だけは堂々と、学校のテレビで民放番組を観れた貴重な時間がったりするw それはともかく、小学高学年向けに、解りやすく、かつ、丁寧にナレーションを入れたのである。のちに、同じく空気過ぎて使いどころがわからんキャラだった増田一樹アナと争奪戦となり、それを期に一線を退くこととなった訳である。

 

真面目な部分ばっかやっても面白くないんで、“あどラン”でのお茶目な部分を話しておくと、とにかく今風に言えば“おげんさん”コスが似合うキャラという位置付けがあって、事ある毎にコント風の解説をやる場合は、決まって“お母さん”役で登場することが多く、松竹新喜劇風の芝居を公開した時でも、完全に“女形”として役柄を徹してた訳である。てのも、顔だけ見たら一応男性らしいんだが、全体見ると非常に華奢っぽく写りがちで、指先や仕草が艶かしい雰囲気を醸していた。その事もあって、イメージ的にはオネぇっぽく思われがちだが、意外にも実はスポーツマンなトコがあり、高校時代に弓道をやってたらしく、和弓の扱いが手練れだったのは渋い一面と記憶している。もう一つ、お茶目といえば、千里丘から茶屋町に社屋が移転すると聞いて、なぜか吉野に移住するというミスをやらかす訳で、以後、薫兄のことを笑えない状況となる訳である…けど実は、薫兄とはガチ喧嘩ができる相手だったらしく、現役時はスタジオで鉢合わせると、相当ぶつかってた様である。それだけ、実はライバルとして認識してた訳であり、切磋琢磨する相手として意識してたという訳である。

 

 

でも、“屋根裏”な活躍しかなかったといえど、影響は大きい訳で、阪神大震災以降の朗読ボランティアが、のちにイベントとして確立するきっかけになってるのも事実であり、地味に存在感を示した功績は大きい。