迷馬の隠れ家 はてな本館

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補欠選挙の結果から見る、いわゆる“特定政党アレルギー”の謎

メディアは嬉々として、与党候補が落選した事を報じた訳だが、沖縄と大阪では、その意味合いは、全くの“別バナ”です。Twitterでも長々呟いたが、根本的な違いは、大阪はおおさか維新の会による独裁も許せる程、既存政党に対する不信感…特に自民大阪府連と共産党に対する批判の意味があり、当然ながら、そのとばっちりを公明党も受けた結果である。対して沖縄の場合、自民党自体を“米国主導資本主義の狗”という見方をする概念があり、地元メディア自体も、本土の政治情勢に深い不審が存在して、それを利用してる輩による部分がある…まして、本当に維新会派に野党最大勢力としての威厳があれば話は変わるが、現状の沖縄の有権者自身、維新を“与党会派”と見做してると推測すれば、完全に話の辻褄が合う。

 

 

 

この二つの“政治感覚の違い”を認識せずに、結果のみで与野党逆転の気運を高めようと息巻くのは笑止千万、そもそも論が“違う”と説明しても混同するのは、立憲君主制民主主義の“否定”であり、成熟した概念とは言えなくなる。つまり、沖縄も大阪も“自民党批判”という部分のみで語れば一緒でも、その根幹は全然別物であり、沖縄は単に在日米軍基地が本土より多い事に対する不満よりも、戦時下の政策で捨て駒にされた恨みから来る不信感であり、大阪は完全に、自民大阪府連の“反安倍姿勢”の批判であり、共産党との選挙協力を表明した時点で見限ったのである。ま、大阪の事案の方がオイラ的に“事情”を知ってるから、ここではそこんトコを(あくまで私論の範疇だが)解説しようと思う。

 

 

 

 

大阪の有権者感覚として根幹を成す部分は、どこまでも“市民が作る自治”であり、行政よりも民衆の行動力が遥かに上だった歴史がある。それは時の権力者が変わろうと関係なく、土地開発とインフラ整備を、それこそ貴賎関係なく“全員で”やってきた訳で、自分が“持てる何か”で社会そのものを支え合う風土が根付いていた訳である。つまり、経済を回すのが財界人なら、その財産や資材をフルに活用してインフラ整備を進めるのが土木業であり、交易によってもたらされた異文化を昇華して自分達の文化にしたのが花街のモノなら、その衣装や食文化を支える者としての農家や職人がいたという、“理想的な共産主義”を確立させたのが、上方経済と文化の歴史である…違いの存在を尊重し、分相応の“等価交換”をやった事で、向上心を維持してきたのが、大阪や堺の自治である。その関係性をぶっ壊したのが戦国時代以降の話で、一番の決定打になったのは、明治維新以降の行政である。

 

度々オイラがブラックジョークで“堺県復活”と言ってる背景も、実は廃藩置県以来の堺っ子の“恨み節”であり、その理由が、実は大阪都構想における堺市の立ち位置に関わる批判である。過去の記事を参考にして欲しいのだが、ざっくり言えば、大阪府にとって、堺市が“政令指定都市”として独立独歩すると、一気に財政赤字が膨大になって、“何もできん”状態になる訳である。元々、堺県西部(生駒山&金剛山以西)が大阪府編入した理由もコレで、大阪市民は自分達勝手にインフラ整備や行政サービスを手がけるモンだから、税収が思わしくないどころか、周辺町村の整備事業ができないほど貧困に喘いだ訳である。そこで明治政府は大阪を“副首都”としての位置付けを維持する為に、ある意味堺県を潰した訳である。この“繰り返し”を懸念する堺っ子は一定数いて、故におおさか維新の会に懐疑的な立場の人が多いのである。(その感情を利用して市長になったおバカが、総スカンするのはアレだが…w)

 

 

大阪府民の“自民党アレルギー”は、自民党員の態度によくある“与党会派”という肩書きに胡座をかいてる事がそもそもにあって、故に安倍政権批判は少なくても、自民大阪府連の態度の悪さと、有権者を見下してロクな仕事をしてない議員に対する批判が先走る訳である。勿論、国政地方問わず、真面目に仕事してる議員や党員もいるのだが、多くが有権者の支持あっての職だという自覚がないから叩かれるのである。そして共産党に対するアレルギーは、特に大阪市の場合は“モンロー主義”を意固地になって維持しようとやったことに尽きる…経済活動あってこそ税収が見込め、公共事業の多くが迅速に行えるのに、それを批判し、拒否した事でケチが付いた訳である。それが“維新(橋下シンパ)憎し”で共闘したら、誰が支持すると思います?

 

 

 

それが今回の結果な訳であり、今後において日本のあり方を考える上で、大阪“だけ”の事情を踏まえて語らないと、共産系与党会派による独裁を許しかねない話になります…何度も言いますが、民主主義の行き着く先にある共産主義とは、互いの立場を尊重し合い、切磋琢磨する舞台がある上で成り立つモノであって、単一思考・単一規格・単一条件は、堕落腐敗の末に社会体制の崩壊を招く“一凶”でしかありません。