迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

散歩という名の“社会科学習”は重要…

大津の交通事故で、2歳児が犠牲になった件で、幼稚園の姿勢(公道での散歩)を批判する人がごく一部で見られたが、的外れもいいトコだし、そもそもは右折車が道交法違反行為(センターライン越しに強引に交差点進入からの前方不注意で直進車へ体当たり)が原因で起きた“巻き添え事故”であり、幼稚園に落ち度は何一つない上に、危険回避の為に、交差点から離れた位置で信号待ちをしてた…にもかかわらず、事故に巻き込まれたのは、上記の原因が全てである。もっと言えば、安全確保をやってても、死亡事故はいつでもどこでも“起きる”訳であって、そこを間違えて“管理者責任”として責めるのは、常軌を逸した行為でしかない。

 

 

さて、ここからが本題なのだが、幼稚園・保育園の散歩や、小学低学年の遠足には、レクリエーションとしての意味合いよりも、社会の理を学ぶ“実践の場”という意味合いが大きいのであって、故に、移動手段が観光バスでの貸切ではなく、ワザと通勤時間の電車や徒歩での移動になる。つまり、交通インフラの重要性と、そこに伴う危機管理の初歩的知識を学ばせるのが主眼であって、目的地自体が折り返し地点でしかない事が多々ある訳である。

 

昨今の幼稚園・保育園では、近隣の散歩が教育の一環として取り入れてるとの事だが、さっきも書いた様に、交通安全を学ぶ為の側面があるのは、この歳頃の乳幼児は、外界への興味から親の目を盗んであらぬ方へ行く習性があり、それが因で事故死するケースが後を絶たない訳であって、それを回避するには、親の注意力以上に、乳幼児自身に“危機管理”という概念を身に付けさせる必要性がある。親子としての信頼関係があるなら防げる事故も多いが、交通事故は、“親の不注意”だけで片付けるには、ちょっと理不尽過ぎるモノが殆どであって、そこんトコを理解せずに批判するのは、お門違いである。

 

そもそも、乳幼児に“死”を教えても理解不可能であり、故に、小動物を平気で殺す訳であって、しかも、機械仕掛けだと思い込んだり、現実の出来事すら“絵本の内容”という感覚で接するから、自分の身に“何が起きたか”っていうのを記憶する事すらあやふやである。だから、時として自分の“知ってる事”だけでどうにかしようと躍起になるのであり、そこに集中すると、もう周囲を見る余裕はない訳である。

 

それをどうにかして、視野を広げる方法を学ぶ場が“散歩”って訳である。目的地まで“まっすぐ歩く”のはもとより、周囲の“空気を感じ取る”事や、その情景の“変化を知る”事で、自分自身の状況を冷静に分析する知恵を学ぶ訳である。観察力や危険予知といった言葉は知らなくても、なんとなく、子供心に身につける場こそ、散歩の“大義”であって、そういう学習ができた子供程、公共の場で走ったり暴れたりしないモノである。仮に粗相をやっても、親が叱る前に、周囲の他人(店の従業員や施設のスタッフ等)の言葉だけで、粗暴な行為をやめることができるのである。

 

そういった“社会との関わり方”を学ぶ場を、事故を“理由”に中止したり、迷惑がるのは言語道断である。小学低学年までの児童が、公共の場で大騒ぎするのは、世間との接点が少ないからこその粗相であって、それが“迷惑”だと言うのは勝手だが、託児所も含めた乳幼児の教育施設で発生する奇声を“騒音”とする事自体、究極の“アホ発言”である。叱るのであれば、それは“何で”迷惑だと思うのかを、簡潔に説明してナンボであり、そこをすっ飛ばして感情的にブン殴るのは、単なる虐待である。

 

 

昨今の親世代が“子育てしんどい”と思うのは、学業成績のみ優秀でも、世間との接点が希薄なまま幼少期を過ごしたからこその弊害であり、周囲も“家族間で子育て”を常識だと思い込んでるからこそ、余計に子育てし難い(=周囲から協力を得られない)訳である。その負担を軽減する為に幼稚園・保育園を利用してるのであれば、子供の“経験談”を聞いてやる事と、教育機関だけでは学びきれない部分を、様々な場所に連れて行って経験させる事が、子供の知識を広げる手立てであると、オイラは自分自身の経験(子供時代)から推察する訳である。その為の“犠牲”を、あなたは払えますか?