迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

“褒める”は上手に“叱る”事が出来てこその話…

川崎市の通り魔殺人事件といい、練馬区の元エリート官僚が実の息子を刺殺した事件といい、一連の報道を見聞してると、どうも被疑者や殺された息子が“ひきこもり”だからと責め過ぎちゃいないか?悪いが、彼等に共通してるのは、親や親族といった、周囲の大人から邪険に扱われ過ぎた事と、自分自身に対する“他人の評価”に振り回されて居場所を失った上に、それを詰られた結果、世間そのものに疑念を抱き、その矛先を、川崎市の件では被疑者は親族が通ってた私学の子供達や保護者に、練馬区の件では殺された息子は両親に向けた訳である…用意周到以前の話だ。

 

劣等感なんてモノは、人間である以上は誰でも抱えてる“心の闇”だ。でも、その大半は、単に他人の才能や環境が、自分の中で勝手に“理想”として描いた妄想でしかなく、それを僻むか、近付ける為に抗うかで結果が変わるのであり、他人の価値観に合う合わないなんてのは、些細なモノでしかない。だけど、そこを理解し、指導できる人は、この日本ではごく稀で、まして教育機関全般は、そもそも学生・生徒を“学力の均等化”ばっかり目指すモンだから、いわゆる“規格外”な子供は、簡単に学校内で“仲間外れ”状態になる。つまり、学校内いじめの温床が、この時点で出来上がってる訳だ。しかも、子供にとって両親の“世間からの格付け”が、そのまま“自分自身の身分の格付け”と見做すトコがあって、公立学校に通う子供の多くは、それ故の劣等感がそのまま付き纏い、私学でも、学力による格差がそのまま、人生そのものに影響を与えるとあって、それによる親(特に普段、育児放棄してる父親)からの叱責が要らん恨みを抱える遠因になる。

 

そういう若さ故の“承認欲求”を巧みに利用して、凶悪犯罪の手先に若者を仕立てたのが、日本で言えば日本赤軍とか革マル同盟、オウム真理教といったテロ行為に至った集団であり、世界に目を転じれば、イスラム教の異端であるIS(イスラミックステート)系のテロ組織であったり、キリスト教徒でもローンウルフな猟奇殺人鬼がいる訳である。つまり、自分を蔑ろにした世間に対して報復し、自分の存在そのものを認知させ、自分の中にいる“神的存在”に“褒められたい”からこそ、他者からしたら“蛮行”でしかない行為に至る訳である。以前にもオウムの件で、ここでも取り上げたかと思うが、法の下で極刑になっても当人らには関係なくて、やった事自体に“目的達成”してる訳である…だから、反省の弁も無ければ、むしろ被害者遺族や公安当局、国家そのものを嘲笑ったまま、刑に臨む訳である。

 

真の指導者ってのは、叱る時はガチで怒り心頭に罵る…でもそれは、単に相手を叱責してるのではなく、指導者として“相手の人生を狂わせた”責任を背負い、自分自身をブン殴る為のモノでなければ意味がない。だから、“叱る”前に“褒める”事も踏まえた上で激昂するのであって、結果的に相手に恨まれたり、嫌われたとしても、相手が“本当に叶えたい事”に到達した時には、我が事の様に喜び、讃える訳であり、たとえそれで失敗して、どん底人生に落ち込んで悩み苦しむ時は、さりげなく声を掛けて一緒に泣く…たとえ遠く離れたトコにいても、常に“相手を想う”一心のみで“自分の居場所”を示し続けるのができる人である。その好例が“闘将”星野仙一であり、中日でも阪神でも、そして楽天でもリーグ優勝や日本一になる事が出来たのは、叱りつけた以上は結果を出したら大袈裟な程に選手を労ったからである。

 

 

感情に任せて怒り狂うのは簡単だが、その後相手を慰め、褒めるのは一番難しい…自分の“思い通り”にならない理由を他人のせいにするのは簡単でも、その原因が“自分だ”と認める事ができる人は皆無に近い。そして、自分と“無関係”な人の幸福を、素直に祝える人程、他人の“不幸”に無条件で涙を流せる人程、お人好しな人はいない反面、そういう人情派な人の叱責は、他の誰よりも精神的に痛いけど、暖かい。それを他人に求めるのは、正直、間違いだ…“誰か傍に居てたら”ではなく、自分自身がそういう存在になりたいと願い、精進してこそ、初めて救済できる事であって、その概念なしで“他人事”にしてる以上、誰も救えない。だから、相手を叱った以上は、自分が相手に対して“人生の模範”となる行動を常に見せるべきであり、褒める時は、些細な事であっても自分以上に労い、慰める時は先に謝罪する気持ちで、何も言わない事に尽きる。それだけで、存在を認め、心の居場所と避難所を得る事ができ、最悪な状況でも落ち着いて行動できるのである。そういう“指導者”になりたいと願い、苦難に立ち向かわない限り、こういう事件はこれからも増えるでしょう…