迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

昨今の僻みの原因…

阪急電車の中吊り広告の件にしろ、桂小枝の“ナイトスクープ批判”にしろ、その背景にあるのは、単なる“僻み”である…ただ、その違いを明確にすると、前者は投稿者が80歳以上の年金受給者にして、手厚い社会保障が受けられる、今の若年層(働き盛り)から見たら“特権階級”の戯言にムカついたモノであり、後者は現場の“環境変化”についてこれなくなった自覚と、自分が思う“笑い”が今でもウケるという自惚れでしかない。共通してるのは、“時代の変化”に対応できない事に対する皮肉であり、特に芸人が自分が降りた番組や企画に文句言ってる時点で“終わってる”と言わざるえない。

 

ま、小枝師匠の件は、ここでは放置するが、高齢者は何を理由に“今の自分”に嘆く様な言葉を選んだのか?そして、掲載された文言で、なんで若年層が批判したのか?そこんトコを考察すると、前回の“シンカリオン  ”ネタに通じるトコがあるのだ。それは、“意図はわかるが、違うそうじゃない”という概念の齟齬である。要は、双方で世間を批判してるが、完全に的外れになってる訳である。

 

恐らく、投稿した高齢者は、ダラダラあてもなく長寿で生きてるより、アクティブシニアとして“生涯現役”でありたいという思いで書いたのだろうけど、それは貧困層で身銭を稼ぐのも困難な人から見たら、究極の嫌味でしかない。20〜30代で年収500万以上あれば、独身であっても裕福で悠々自適な生活もできるだろうが、子育て世代でも、年収300万以下がザラな現代において、“仕事しなくても月50万”は究極の贅沢であり、将来においても“幻影”でしかない…故に“何抜かすんじゃ、耄碌GGI”となるのである。しかしこれをひっくり返して、高齢者視点で若年層の批判を目にすると、どんなにお金持ちになったとしても、社会に“居場所”が無い事の方が、自分自身の感覚として辛いんだと訴えたかっただけの話で、まさか今の賃金形態が、自分が想像する以上に劣悪な状態になってるなんて、想像が付く訳がない。だからこういった“意見の齟齬”が生じるのである。

 

これは何も、こういった世代格差に限らず、LGBTや身障者、難病患者に関する話でも同じで、在日外国人やアイヌ民族の話にも通じる部分である。相互理解する機会はあれど、それで“完全理解”が出来る訳はない…むしろ、誤解や偏見、憎悪が増すだけな場合が多い。無理もない、深く意味を理解せずに、上辺の情報のみで判断するのが関の山で、実情をきちんと把握してるかといえば、1割いたら良い方である…つまり、言葉で理解したと言ったって、“難信難義”である以上、真意が伝わる事はない。

 

 

オイラも今、左眼の光を(治療の都合で一時的ではあるが)失ってる状態だからこそ言えるのだが、他人から“完全失明するかも(ry”と言われても、それは眼科医や実経験がある人が言う分ならともかく、そうじゃない人が勝手を言われると、滅茶苦茶ムカつくし、余計に無茶するだけだと認識してる。見えてる以上、動ける以上は、無理でもなんでも“自分の爪痕”を遺したい、続けたいという意思がある。それが失われない限りはなんだって出来るし、失敗しても後悔はない。何もしなければ長生きできても、それがどれだけ退屈で不幸な事か…だからこその勝負に挑んでるのであって、その先に不幸しかなくても、そこに悔いなんてのはない…自分の意思で“選んだ宿命”だから、ありのままに受け入れ、背負うまでだ。それを批判するなら、勝手にしろ。その立場に、現場にいない事に対する僻みは、自分が“選ばなかった宿命”だ。