迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

メデイアは“故人からの警告”を忘れたか?

京アニ放火テロ事件に関して、在阪、および大手既存メディアが、被害者の実名報道を申し出てる件で、SNSにおいて、フリーのルポライターと称する方の経験上から推察する話として、被害者遺族の“お涙頂戴”系ほど取材しやすいからという、いろんな意味で人道外な主旨を呟いてたんだが、この件に関して、阪神、および東日本大震災、更に熊本地震でも指摘があった様に、そして、某新聞社の支局記者が銃撃で殺傷した事件も、よくよく考えたら、この“取材姿勢”自体が“言論の自由”そのものを破壊する一凶になってるといって過言ではないと思う。

 

 

 

 

 

ではなぜ、こんな“同じ過ち”が、既存メディアでは未だに繰り返されるのか?メディアにしたら、こういうのを報じた方が“商売”になるからと、若手記者に対して凄惨な現場での取材を経験させるには、一番都合がいいからです。しかし…現場取材を任された、最前線に立つ若手記者やカメラマンにとって、この方法が果たして、“良い経験”と言えるのでしょうか?コレ…相当精神が病んでしまいますよ、大ベテランであっても、その被害者・被災者が、遠縁の親族やSNS上で知り合った友人だったら。

 

具体的な話として、このはてブでも過去に何度も取り上げてる話として、CRKサンテレビのスタッフがやった行動に、神戸市内や阪神間の被災者が後日取材に応じた話…これは、“被災現場のメディア”だからこそできた話とする人は、読みが甘過ぎます。被災地域から遠く離れた在京メディアが、被災地での取材に大挙を成して乗り込んだ挙句、被災住民の救援を求める声を遮ったり、自衛隊の活動に対し、写真映えする動作を要求したりと傍若無人を働いた挙句、救援物資輸送の行く手を阻むわ、勝手に避難所の出入口塞いでマイク突きつけるわとやりたい放題やってた訳である。基本、喋り屋気質の関西人といえど、この非常事態にベラベラと話す人なんて皆無だし、まして、瓦礫の下から僅かな希望賭けて叫んでる人の前で、“いい画が撮れるから”ってカメラ回して救助もせずに見殺した…なんて話聞いたら、誰が取材に応じると?

 

現地で被災してるから、動けない地元のメディアからの“救援要請”で取材してるならいざ知らずだが、勝手に“手柄欲しさ”にアラ探しやってる輩を目の当たりにした神戸市民は、それ故にみんな口を閉ざし、更には在阪メディアに対しても“取材拒否”をしばらく続けた訳だが、神戸新聞社系メディアだけは違った…社員の多くも被災者であった上に、CRKサンテレビは、社屋にも被害が及び、特にCRKはスタジオそのものが全壊するという最悪の事態に陥った。そこで、急遽現場にいたスタッフ総出でスタジオ機能を復旧させ、送信所のアンテナの無事を確認して、放送を復旧させた訳である。その後、中継車を走らせる際に避難所へ向かう高齢者や身障者を乗せて運んだり、救援物資を取材先になる避難所と中継地点となってた各市役所を往復する等して、取材するよりも先に救援ボランティアを買って出た訳である。この事がのちに、震災の記憶を取材する際に役に立ち、より克明な震災記録を掲載するに至ってる訳である。また、毎年の慰霊行事に際しても、最前列での取材ができるのは、この時に築いた信頼関係あってこその話であって、それが他所でも通用すると思い上がって、在阪メディアが東北や熊本に取材に行こうとするから、叩かれた訳である。

 

この件で、当時“ズームイン!朝‼︎”のMCだった福留功男アナも、“本当は、マイクのスイッチ切って、瓦礫撤去の救援をやりたかった”と吐露した様に、同じ在京メディアで現場に取材に入った人でも、気持ちとしては、人道支援が先だとわかってた。けど、大本営である東京のスタジオやデスクからは“取材が先”という業務命令が下っていた。そう…被災現場から遠く離れた連中にとっちゃ、この凄惨な状況も“エンターテイメント”でしかなく、視聴率や販売部数拡大の“小道具”にしてしまってたのである。

 

ここの部分で、実はもっと昔に、警告を発してた人がいた…Twitterでも呟いた際に名を伏せたのでここでも出しませんが、一人はこの震災の2年前に病魔に倒れた人が書き遺したエッセイの中に、もう一人は、件の凶行で命を落とした若手記者。双方が異口同音に示してるのは、“ペン(マイク)の暴力”は、被災者・被害者を更に傷付け、最悪は自分の言論を潰される…という“真実”である。実際、件の若手記者は、本来であれば殺害される理由など持ち合わせてなかったにも拘らず、たまたま宿直で待機してたところを強襲され、丸ごと潰された訳であり、仮に殺害理由となったであろう事案の取材をやってたとしても、記事としてまとめるかどうかは記者の文才と編集者の胸算用であり、掲載されなかったら、襲う必要もない。また、エッセイを遺したフリーアナは、かつて駆け出し局アナの頃に経験した、千日前デパート火災と、大洋デパート火災の取材時、同行してた上司のディレクターに対し、これ以上の取材はやるべきではないと進言したものの、「こういう経験を重ねてこそ一人前」と諭され、しばらく報道に現場から干されたという…しかしこの出来事が、後々、彼のドキュメント番組に対する取材姿勢となり、担当してた番組での誇張(やらせ)演出に抗議して降板する騒ぎに発展した訳である。

 

事実に対する接し方は、それこそ千差万別十人十色だから、どう取り扱っても自由だが、“自由”だからこそ、守るべき秘匿事案がある。ま、そこんトコを知りたいと思う気持ちはわからなくないし、そこの部分を知って、理解できるなら問題はないが、それを“理由”にして犯行に及ぶ不逞の輩ってのがいる訳であり、また、秘密にしてないと誤解や偏見からの余計な事案に巻き込まれて、“真実”そのものが歪むことになりかねない。だから黙秘して、墓場まで明かさずに持って逝く人がいる…本当であれば、“歴史の記録”として遺して欲しかった話はたくさんあれど、それを明かさなかった“本心”を悟らず、赤の他人が“真実話してw”って聞き出す事は、精神的苦痛が伴う話であると同時に、それによって誤解や偏見で“2次被害”を受けてしまう…被疑者が報復相手を間違えて、全くの“赤の他人”を襲撃したとなれば、真犯人の思うツボであり、被害者心理の“負の連鎖”が更に助長するだけで、なんの解決策にもならないからだ。それを逆手に取って、国際社会で傍若無人を許してきたのが韓国の政治であり、それを改められないのは、日韓双方のメデイア自体が、過熱報道で民衆の集団心理を焚きつけてるからこそである。

 

 

 

 

 

そこに“警告”を、命を賭して発し続けてる事に、日本の既存メディアは、これからも“無視”するでしょう…自分の襟を正さず、収益至上主義に走った結果、どんな事が起きて、その結末として、どんな悲劇が待ってたか。歴史とは皮肉にも、そういう“失敗談”を笑い話にして無視した顛末だけが残る。でも、そこに隠された“真実”は、決して笑えないし、笑ってはいけない。同じ“失敗談”でも笑えるのは、当事者の実害が軽微で、誰一人として命を落とさなかったからこその話だ。