迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

他人を批判するのは簡単だが…

国連総会に参加した、北欧の16歳に対して、大人気ない事をSNSで吠える人も、消費税増税は大企業だけが得する税制だとほざく“正義の市民団体”を名乗る意見も、正直“アホか”とオイラはツッコむ…前者に関しては、欧米諸国の教育現場では、義務教育下でも学習内容に応じた“飛び級”制度は普通だし、日本の様な年齢や地域性、単一化した内容の学習法に当て嵌めて批判するのは愚の骨頂だし、後者はに関しては、大企業の収益が、下請け・孫請けの中小零細企業の業績や収益につながり、就労者の賃金にも反映されるのに、そこを無視して叩いてる時点で話にならん。もっとも、昭和の高度成長期の頃に消費税がなかったのは、直接税である住民税や所得税が今以上に割高であった事や、就労適齢期(16〜55歳)の人口が圧倒的に多かったから、間接税を特定財源(道路整備や防災等)以外では徴収する必要もなかったし、公団事業は独立採算で収益を得られたからである。つまり、国鉄電電公社等の民営化に伴う精算事業や、特定財源用の間接税を統廃合したり、公害の国家賠償が膨大になった上に、少子高齢化で就労者人口そのものが激減した上に、社会保障や教育改革による無償化が、財政悪化を促進してる訳である。

 

 

 

 

自分以外の意見や提言を批判するのは簡単だが、その基準がどこにあるのか?単純に自分の経験談や常識のみで相手を侮辱するのはいいが、それは、他人から自分に対して分相応の批判や苦言を、全て受け入れられるだけの度量があってこその権限である…と、オイラは考える。だから、批判した分、自分が恥掻いて傷付けられても、笑顔で立ってられる度胸がないなら、最初から相手にしない方が、双方にとって幸せだったりする…“知らぬが仏”とは、まさにそれな訳で、知りたくもない裏情報を知ってしまえば、余分な怒りや恨み言で心が歪む事になる。当然、知ってて“無視する”という選択肢もあるだろうが、それができる程の度量があれば、犠牲は最小限で済む…自分“だけ”が傷付き、その痛みを絶えず耐え続けてたらいいのだから。

 

しかし…そんなSM志向でもドン引きする程の忍耐力を、持ち合わせてる人などいない。否、いるにはいるがごく少数派にして、もし巡り合えても、自分がその人を殴り続ける持久力は、無いに等しいほど飽きる。だから、幼少期のいじめも、ある日突然“標的”となる存在がいなくなると、その不安から、新しい“標的”を探すが、結果、見つからずに自分に被害が及んで泣きを見るか、自分への嫌悪感を募らせて拗らせキャラに変貌する…つまり、“いじめ”の根幹は、目に見える形での“力関係による自己顕示”であって、価値観や世界観が違えば、次第にその“ちっぽけな権威”によって加害者側が身を持ち崩す事になる。そうやって、人間は精神的な成長をやってく訳だが、誰もが“成功事案”だけを求め過ぎるから、自分の“本質的価値”を見失い、他人を羨み、そして勝手に妬んで憎しみ、存在否定に走る訳である。

 

つい先日、学会に仇為す存在の一人が生涯を閉じたという話が一部で報じられ、SNS上でも学会の反応をwktkしてエゴサーチしてる旨の内容が散見されたが、組織として学会がこの件に関して何一つ、機関紙(創価新報聖教新聞等)で報じる事はなかった…まぁ、そうでしょうw あんなモンを報じる価値もなければ、既に組織の最高位を退座した時点で、これ以上の追求しても意味がない上に、組織間の抗争において個人の事情なんて、関心が薄くなるのは当たり前であるw (そもそも、池田先生も90歳オーバーですから、いつどうなってもそれはそれだし…)

 

話が逸れたんで元に戻せば、自己顕示欲は誰にでもあるし、承認願望があるからこそ、様々な主張や表現、芸事や技術ってのが伴う訳である。当然、思考も興味も多種多様であり、それらは生活環境や地域性によって様々な訳であって、どれが“正しい”という“明確な解答”なんてのは存在しない…あくまで現時点で“最善”だと思われる意見と思案であり、行動でしかない。その影響は、思いついた時点では“予測不能”であり、だからこそ、時代に合わせた再考や対策が必要なのであって、そこに“成功事案”のみを求めるのであれば、故の“不具合”に対して、次世代を担うであろう子孫達に、それこそ“言い訳”をし続けなければいけない…懺悔と贖罪も込みで未来を託す事に、心が締め付けられようと。だから北欧の国々やスイスでは、義務教育の段階で重税を課す意味と社会保障の仕組みを徹底して教え込む。当然、アメリカの教育現場でも、原爆を日本に落とした意味と、それゆえに背負う事になった“汚名”の意味を、社会科できちんとやる訳である。故に、地域によっては原爆投下の“正義論”は賛否両論あり、同じアメリカ人でも温度差がある。それを知らずに、単に“反日正義”をまかり通す輩は、世界中から批判されて当然であり、福島第一原発事故で生じた放射性汚染水の処分に関しても、太平洋で核兵器の実験やってた欧米諸国は理解を示してる訳であり、それで本当に迷惑してるのは、中国やロシアではなく、実験場として海を汚された太平洋上の島国全般であり、そこに便乗してる市民団体の多くは、“自分は余所者”という認識が乏しいだけの存在でしかない。

 

 

 

 

 

如何なる思考も、その存在を認知するかどうかは他人次第だが、それを他人に喋って伝播する時に、必ず発言者の意図は歪められる…“第三者”である以上、事の本質を踏まえた上で喋ることができない上に、当事者じゃない時点で、当事者自身の語る“真実”とて、仲介者が挟まると中途半端にしか伝わらない。だから、裏があると勘ぐってる人間不信者には、素直な感情で賛同はできないし、自分の思い通りの答え以外認めない様な神経の持ち主なら、何がなんでも自分の正統性のみ語って、批判に躍起になる。でも、そこには結局、何の価値も正当性もない訳であり、単に騒ぎたいだけのパーティピーポーでしかないw だから、批判するなら、その言論と思考の“対価”として、自らの無知さ加減に恥を掻く覚悟と、傷付きながら醜態晒す存在であり続ける事を、自ら願い出る変態でなければ務まらない。それが嫌だから、匿名性の高い方法で罵り合う場を求めて恥掻く訳です。