迷馬の隠れ家 はてな本館

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皇室は“独裁者”ではなく、日本国民の“あるべき模範”です。

今月22日に行われた天皇即位の儀式、SNSでのTLを散見すると、とんでもなくファンタジーな現象が起きたと、軽く明るい話題があった訳だが、日本がこういうノーテンキな国でいられるのは、天皇という存在に対する根本概念自体が、政治とは全く“別なモノ”として捉えてる部分があり、また、国という組織そのものを“宗教”として考えると、その頂点に据えられた存在は、“神の化身”であると同時に、国家安寧に不可欠な“生贄”という位置付けだからこその“奇跡”とも言えるかもしれない。つまり、古来より国を司る“神聖な人柱”である事が、皇室の長とも言える天皇のあるべき姿であり、故に、現代社会に於いて、政治を国民に信託し一線を引く事で、日本は“民主主義国家”として成り立ってると考えた方がスマートと言えるかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

さて、皇室行事に対し、一定数の批判的意見も散見される訳だが、こういう意見で目立つ“税の無駄”という意見は、正直いえば完全に的外れだし、宗教儀式に政府官僚や大臣が関わるのはよろしくないという批判もまた、憲法が定める“信仰の自由”そのものを履き違えてると言わざる得ない。ま、宗教関連については後日、学会員の立場として纏めてやるとして、所謂“人民解放革命”と表して皇室行事を批判する連中に対して斬り捨てる話をやっておこうと思う。それは、世界中の絶対王政、あるいは立憲君主制国家とは、大まかに2つの姿があって、一概に“王に隷属”という考えは間違いだって話である。独裁政治とて、成り行きでそうなっちゃったトコと、当事者が単に支配欲が強過ぎて拗れたのとでは意味が変わってくる。

 

王侯貴族による統治が行われてきた国には、日本や英国王室の様に、政治に関しては国民に信託し、基本は国際交流の場や有事の際に表舞台で民衆を鼓舞させる位に留めるトコもあれば、中東諸国の様に直接政治に手を出して、民衆の生活や安全を守る為に奮闘するトコもある。当然、最高責任者の地位が、国によって(価値観も含めて)差異があるが、根本的な部分はほぼ同じである…が、問題は、王室(皇室)や責任者が本当に“悪の権化”ではないのに、不平不満をブチ撒ける標的にして、それを倒す(あるいは消滅させる)事を主眼に“革命”を叫ぶ人が、実力行使の名の下に暴力を振るう事である。確かに、フランス革命ロシア革命は、最終的に皇帝貴族を“公開処刑”して民主化共産国家へと変貌したが、コレは、その前提として王侯貴族や一部の官僚による横暴な政策によって民衆が苦しめられた…という“前提条件”が存在し、この件においては、古来に日本(てか大和朝廷)でもあった話であり、崇峻天皇もそれが理由で家臣に殺害された訳である。

 

しかし、それで“民衆解放”となったかと言えばそうじゃなく、単に支配階級が変わっただけで、庶民が本気で求める“解放された自由な社会”とは程遠い、政治的混乱が余計に酷くなったのは、歴史の流れ上、毎度の如く発生してる訳で、そこからやっと、“自由”の本意に気付いた民衆が、自らの襟を糺し、あるべき国家運営の模範を築いてきた訳である。つまり、支配者となるべき人物が抱える、本質的な“欲望と闇”を、いかに見抜いてコントロールするかが、親性王政(王室の気分次第で行う政治)から脱却を図る民主国家の課題であり、また、社会共産主義国家でも、同一の問題があって、そこんトコで一悶着があった訳である。故に、“マルクス・レーニン主義”を標榜しソビエト連邦を纏めたスターリンは、事もあろうにレーニンを神格化して、その“正統後継者”と表して、反対意見を唱える他者を次々と“始末”した訳であり、その範に習って同じ事をやったのが中国の江沢民毛沢東の意思を継いだとしてやった“文化大革命”なる暴挙であり、カンボジアポル・ポトとその一味がやった大量虐殺である。(で、そこに便乗して問題を起こしたのが金日成であり、朝鮮半島の歴史問題において日韓関係が毎度拗れる背景にあるのが、実はここだったりする訳である。)

 

“親性”という言葉が出てきたが、コレは最高責任者…国家元首による独裁の言い方を変えたモノであり、要はトップダウンで物事が決まる、議会や家臣の忠義を全く無視して、“最高責任者”という権限のみで傍若無人な政治をやる方法ではあるが、何もそれ自体が“悪”であるとは限らないのであって、有事の際…特に大規模自然災害(今年の台風19号による広域での大水害や、東日本大震災の様なケース)が発生した時に、チマチマと議会を招集して討議するより、一発号令で救援や復興に予算や専門家を派遣する分には有効な手立てである。状況の把握に時間を割くより、とりあえず被災者救助の為に軍隊(日本の場合は自衛隊)の派遣と、生活再建に必要な最低限の“見舞金”支給を、財政に構わずやれるのが“良き独裁者”とも言える訳で、その際に自分に不都合な存在を排斥する行為をどさくさ紛れで行えば、そのツケがどっかで生じる訳である…今日のドイツでヒトラーが嫌われる最大の理屈がそれであり、特にユダヤ人差別のみならず、LGBTに対しても批判的で排除対象だったのはいうまでもなく、先天性の身障者も、有無も言わさず“処分対象”となったのは、あまり知られていない“闇”である。

 

 

 

 

 

話があらぬ方へと吹っ飛んだんで、日本の皇室批判に対する勘違いを一言で斬り捨てると、今の皇室は室町時代(てか、南北朝時代)以降、殆ど“御飾り”状態であり、国家元首という意味で、自らの意思で政治に関与した事は、全くと言ってない。昭和天皇ですら、結局は当時の軍部や政治家に立場を(大日本帝国憲法に基づいて)利用された訳であり、むしろ終戦後にGHQ相手に、戦争責任として命を抛つ事を厭わなかった…つまり、“民のため”という一言をもって“A級戦犯”として処刑される事を望まれた訳であり、それを止めたのが、英国王室と国家だったのはいうまでもない。(ま、その裏に、ソ連の思惑を牽制する、アメリカの策略もあった訳だが…)そういう事も知らずに、皇室を批判するのであれば、日本で生活する分には別に放っておくが、それを理由に暴力を振るい、巻き添いで無関係な民衆を一人でも傷付ける事は、日本国民として絶対許してはならない…日本国民は誰一人として、皇族に隷属してるのではなく、“対等な存在”として認めているからだ。