迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

この世はまさに“大貧困”時代なのかもしれない…

前回(10月23日更新)の流れから、今回は宗教哲学に絡んだ部分も含めた、昨今の富裕層と言われる人々の傾向について。政府が公費で国賓を接待した件で、SNSの意識高い系アカウントが政府をボロカスに叩いてるのは、毎度ながら“お約束”と言わざる得ない程のレベルだが、根本的に、国家レベルの要人を接遇(要はおもてなし)するのは、国際社会において交渉事をやる上での礼儀であり、招かれた要人もまた、分相応の礼儀を重じて正装を纏う。そして、何よりも国の品格とは、この接遇に対して、如何に恥を掻かずに相手を満足させ、対等な立場で物事を進めるかに掛かってる。故に、最高級の食材と、品位ある調度品、万全な警備体制を備えるのであって、雑多なスラム街に、一つでも場違いな程品格ある料亭旅館があっても使い勝手が悪いし、警備の都合で山奥に迎賓館を作ったとしても、その道中のインフラ(特に道路事情)が悪ければ、招かれた賓客も大恥を掻く事になりかねない。

 

 

 

 

 

昨今の“大富豪”…特にIT関連で億万長者になった人に多い“ミニマム生活”という習慣は、一見すると貧乏臭い見映えだが、それが格好いい風に見えるのは、自分の体型や生活習慣の改善があってこそ成せるモノであり、当然、さりげない贅沢をやった上での話だ。つまり、ファーストアパレルでトータルファッションを調えていても、時計や靴、アクセサリーに品の良いモノを身に付けてたり、上質な香りを纏っているなら、決して“ミニマム”とは言えない…そう、安っぽい格好でも、自分の拘りで選ぶ最高級の何かを、さりげなく使い熟すからこそ“格好いい”のであり、逆に、これ見よがしにブランド品でゴリギリに身を固めようが、貴金属アクセサリーを持ってても、そして、体質に合わない香料(安物の香水や芳香剤等)で体臭を誤摩化したトコで、そこには品位も何もない…ただただみっともないだけである。

 

そんな事も知らぬ人ほど、政府や皇室批判に躍起になる訳で、ある意味無責任な僻みを述べてるに過ぎない。もっと言えば、国産の最高級食材を供するのが許せないと言ってるなら、それは全国の農家を敵に回す行為であり、漆器工芸家具を“贅沢品”と叩くなら、それは日本中の工芸作家を愚弄する一言になる…当然、道路整備や防災対策を“税の無駄”と斬り捨てたなら、今回の広域での水害被害はそのツケであり、宮中行事を中止しろと言い放ったのであれば、被災地へ皇族方が慰問される事を断るべきだ。何故なら、本物の富裕層とは、有事の時程私財を抛げうって地域の災害復興に尽力するだけじゃなく、海外要人に協力を呼び掛ける…その為の接待であり、実情を把握する為に外を出歩くのである。そこに掛かる費用など、これから必要となる災害復興や防災整備事業、更には国際間での諍いを避ける為に必要な最低限度の防衛力維持を踏まえれば微々たるモノであり、それらは巡り巡って、必ず自分の生活環境にも反映されるモノである。

 

なのに、それでも政府や皇族に批判的な意見を言い放つ人は、どんなに資産を持っていようが、どんなに優れた学歴を誇ろうが、結局は“それだけ”のビンボー人ですw 正確に言えば、礼儀や所作を学ばず、正しい経済の仕組みを知らず、単に他人よりも“自分”の有能さに自惚れて、周りが見えなくなった、“精神貧困者”です。豊かさとは、金銭の有無でも、学歴的優劣でもなく、心の…精神的な充足感が有るか否かです。つまり、金銭や物質的には他者が羨む様な、一見すれば大富豪でも、血縁関係ある家族に対しても不信感を抱えていたら、その時点でその人の価値観には金品以外“存在しない”から、どうしても溜め込むのです…虚しさをなんとかして埋め合わせようと。それ故に、たとえ地元地域が甚大な被害に見舞われようと、一銭も金を出さずに遠方へ逃げたり、敷地内に避難しようとした人を排斥したり、避難所の配給される食糧を独り占めしようと躍起になるのです。当然ですが、こういう人程、自衛隊の救援が遅いと文句言うし、税金払うの渋るくせに河川の氾濫を“行政がお粗末だw”と罵るし…

 

 

 

 

 

 

そんな“世間知らずな金持ち”が世界中に蔓延ってたら、そりゃ、誰も彼も、世界中どこでも“大貧困”ですわw 何度も言いますが、親政(独裁)政治を布く国であっても、分相応に民衆の“生活を守る”為に散財してたら、誰も文句言いません。社会共産主義でも、宗教倫理に基づいた国家運営をやってるのであれば、多少の齟齬があっても、社会を支え合う基盤が崩れる事はありません。しかし…歴史上これらが“否定”された背景にあるのは、すべて“心か貧困”だからこそ、民衆は暴挙に出て、“自らの意思”で破壊したのです。その上で“新しい国のあり方”を模索するうちに疲弊し、元の木阿弥に堕ちる訳であり、いつまで経っても“恒久平和”の実現ができないのです。何故なら、“豊かさ”を求めるうちに、充足感が麻痺し、本当の“幸福”そのものを、いつしか捨て去ってしまってるからです。だからこそ、少し立ち止まって考える事も、その為に心身共に休む時間も必要なのです…そこに気付かせるのが、宗教の本意の一端であり、その哲学に立脚した概念がある人こそ、本物の“大富豪”なのです。まさしく『蔵の財より(中略)心の財第一なり』なのです!