迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

今回の感染症騒動について思う事。

こっちの更新がかなりご無沙汰だったのは、眼の病状が思わしくないのと、入力画面が見辛いからです…はてブアプリだと、文字が薄いわフォントが小さいわで使い勝手が悪いw ま、今後はこっちを廃止して、音声blog形式のRadiotalkへ移行しようかと。

 

 

 

それはさておき、未だ終息の目処が立たないCOVID-19ではあるが、アメリカのトランプ大統領と中国政府の態度を見てると、なんとなくだが、日本や欧州の意識に対して双方懐疑的、かつ、批判めいて見える。てのも、“嘘”を吐いてまで現状維持や旧態依然に拘ってるのと、そうしなければ世界の経済そのものが破綻しかねないという危機感から、結局意地張り合ってるだけだという事に尽きる。但し、答えが同じでも、その過程や政治姿勢が真逆なので違って見える訳であり、根幹的な部分では、民は救済を求めていても、それを国という組織として、あるいは国際社会上の宗主国として“身動くが取れない”故に、近隣他国に頭下げて救援を求めることすらできない。

 

特にトランプ大統領の行動は、アメリカ国民と医療機関、公衆衛生の関係機関に対して“中国と同じ嘘を吐け”と言ってる様なモノであり、、中国に対する事実上の“敗北宣言”と捉えた方が早く、かつ、だからこそ、資本主義国家として経済を回す上で散財と、今までの“普通の生活様式”に固執してると考えるべきだろう。

 

さりとて中国の場合、社会共産国家である以上、国民に対して箝口令や強制的な移動自粛を伴う行動制約を課すことができる反面、それに似合うだけの社会保障を行う為に、敢えて罹患者や医療従事者を切り捨てる。もっと言えば、北京や上海等の大都市圏以外はノーカン扱いにして、さらには反抗勢力の少数民族相手に“公衆衛生の観点”という名目で診療拒否を行なっている可能性がある。

 

つまり、感染症を口実にした民族間差別が横行してる可能性があって、それをトランプ大統領は羨ましく思ってるフシがある。

 

 

しかし…だからこそ世界中から米中双方が叩かれる訳であって、だから治療や予防のデータを共同研究の為に提示しろと要求しても、双方ともに“虚偽報告”しかできない訳であり、そこには世界中の民衆を救済するという意思が一つもない訳である…グローバル化を叫んでる割に、多様性、個々の尊厳など、彼らにとっちゃ“クソクラエ”な話である。もっと酷い言い方をするなら、グローバリズムは自分達に“都合の良い単一化”が是であって、それに適合しないなら排斥あるのみである…故、疾病に託けた“差別”を、アメリカは“否定”したいから行政のトップがアホな事を繰り返す訳であり、中国は“肯定”したいからこそ、未だに蔓延してても“罹患する奴が悪”として見做す訳である。

 

 

 

ひっくり返って言えば、自分の日常は“普通”と思ってる概念こそ、そもそもおかしい訳であって、地域や風土が変われば、それに見合うだけの対応をするのがスジであって、その意味や理由をきちんと把握した上で再考するのが理想であり、それが実現しないのは、“常識”という情報バイアスが掛かってるから理解不能なのである。

 

例えば、マスク着用のルールも、人混みが予測される場所や、そもそも呼吸器疾患やアレルギー持ちで大気汚染が気になる場合なら原則として着用すべきだが、野外活動で屋外にいる時や、楽器演奏でも吹奏楽器以外のアンサンブル演奏なら、場所にもよるが、フェイスガードもいらないと思う。逆に、合唱やフルオーケストラとなった場合、フェイスガードもさることながら、奏者同士のソーシャルディスタンスが不可欠。

 

それが“面倒だ”と思うなら、否…面倒で苦痛と思うなら、“自文が思う当たり前”を保持する為に、他人のと接触を絶った方がいい。誰とも関わらないままでいたなら、限られた空間であっても好き放題できるが、誰かとの接点を求め続けるのであれば、相手に対応を求めるより、自身の取説を開示した上で相手の条件と折り合いを付かせる方が賢明である。そう…自己完結できるなら、ボッチでも全部対処できるが、何らかの不具合があってそれが維持できそうにないなら、孤高を誇示して自ら断つか、侮蔑されても頭を下げるかの二択しかない…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ま、アメリカ国民も中国人民も、所詮“他人事”として政争をエンタメ化して見てるトコがあるからエエ加減な首脳が政権を獲る訳であり、それを良しとしてる為政者や官僚がいるから腐敗するのであり、自浄できないのは、そっちの方がラクだから…つまり、“現状維持”こそ“今まで通り”という概念こそが、今ある平和な社会が衰亡する一因だと捉え、いかなる相手であっても尊厳を持って敬意を払い、自らの精進鍛錬を怠らない事である…たとえ誰からも賞賛されなくても。