迷馬の隠れ家 はてな本館

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“佐渡御書”の話

今回の青年教学2級試験には、“佐渡御書”が試験範囲に入っている。この“佐渡御書”とは、文永9(1271)年3月に流刑地である佐渡(@新潟県)の塚原という場所で、鎌倉の地に残ってる日蓮門下(含む在家信徒)に対して送った手紙である。その背景には、いわゆる“竜の口の法難(たつのくちのほうなん:念仏信徒であった平左衛門尉(へいのさえもんのじょう)が、佐渡流罪となった日蓮を、護送するフリして殺害しようと企てたが、斬首する直前にトラブルが発生して、未遂に終わった)”といわれる“事件”があって、コレに動揺した弟子や信徒が日蓮の教えに“疑念”を持ってしまい、次々に退転していった訳である。で、その事を受けて佐渡に流された時に書いたのが“開目抄”であり、門下一同に対してあらゆる“大難”に動ずる事なく精進せよと指導した。でその後、ちょうど北条時輔(ほうじょうときすけ)の乱が発生し、コレは“立正安国論”で予言した“自界叛逆難(じかいほんぎゃくなん:要するに身内が起こしたクーデターの類い)”が的中している事を受け、確信を持って信心に励む様激励した訳である。

ま、“開目抄”の話をやると、いつまでたっても“佐渡御書”の説明に辿り着かないんで、簡単なヒントを言うと“五重の相対(ごじゅうのそうたい:詳しい事はまた今度するが、仏法の正邪判別のチェック要項だと思えばわかると思うw)”を詳しく説明してると考えれば桶…もとい、O.K.である。
で、“佐渡御書”ってのは、それに基づいて末法(まっぽう:仏教において釈尊の功徳が消滅して、諸法の通力がなくなった状況をさす。)において法華経を広めるのには“折伏”を行なう方が理に適ってるとし、その為に“不惜身命”の信心を持って、世間のデマや迫害と闘うよう指導されている。つまり、“竜の口の法難”や、その前に喰らった伊豆流罪(極楽寺良寛のデマを信じた鎌倉幕府が行なった。結局、デマが判明して戻って来れた訳だが…)等の“迫害”は、過去世における謗法が原因で背負った“重罪”であり、法華経の行者として成仏する為の“試練”が大難というカタチで発生しただけであると説明している。
わかりやすく例えると、赤点だらけの不良少年が、とても難しい司法試験を合格する様なモンである。つまり、世間的な“落ちこぼれ”というレッテルを返上する為の地道な努力が必要なのと同じであり、その為に待ち構えている“誘惑”を断ち切る為に戦う訳である。その途中では当然だが、過去の“犯罪”がひびく場合があり、バッシングも激しい訳である。しかし、そういった“愚行”を乗り越える事ができた者には、過去を問われても“笑い話”に変える事だってできる。逆に過去に囚われたり、そういった“見えない努力”を愚弄する者は、翻ってその事が“自分の足を引っ張る”事になる。
“未来”という時の流れを見据え、いま自分に“できること”を突き詰めた時、本気で挑むべき事なら不惜身命…つまり、“命をかけて完遂すること”として捉えるべきであり、自分の“過去”に振り向いてはいけない。他人が“過去の諸業”をしつこいぐらいに問いつめてきたら、いまの“自分”を見て判断すべきと糾弾する事も、時には必要となる。その“勇気”を試されるのが“大難”の正体であり、それを甘んじて受けなければ、本当の意味で“未来”を開く事はできない。
いわんや、普通に生活している人々を“権力”を持って脅かす様ならば、それと闘ってナンボである。イスラエルのやってる“行為”を諌めてこそ、アメリカが“世界の警察”として誇れるモンであって、現状の“ユダヤ人に逆らうな”的な態度では、中東諸国はおろか北朝鮮がバカにして当然である。もちろん、“自分達こそ正義だ!!”と叫んでテロを繰り返すアルカイダマオイスト(ネパールを中心に活動する共産主義軍事組織)は、その“思想”はエラくても、やってる事が一般庶民を巻き添えにする様では、誰も自分達の“正義”を理解してはくれない。だからこそ、“人間”としての対話が必要であり、それを拒むのなら、滅亡を覚悟しなくてはいけない。みんな、自分の命が惜しいからこそ、ジタバタする訳であり、その結果、誰かが犠牲になる事を覚悟していなくては、結局誰からも“恨まれる”事となる。その“謝罪”の場は日々の勤行・唱題である。