迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

真の自由民主主義には、如何なる結果にも連帯責任が伴う。

名伏し難いTwitter芸人が、香具師い事言って注目されてんだが、敢えて相手するなら、自分の発言や行為に批判喰らって、その恨み節をつらつら書いても、一般ユーザーから大喜利されて、事の真意を理解される事は、まずないでしょうな…だって、芸名だろうが本名だろうが、その名を冠して世間で言葉を交わし、活動してる以上は、分相応の責任と意見を聞く義務が生じるのであり、それと引き換えに自由民主主義は維持できる訳である。つまり、多数決の結果に対する成否は、反対意見を示した者にも、負わされる訳であり、それが嫌で暴言・暴力に逃げるから嫌われるのである。

 

 

 

社会共産主義に傾倒する人に一番多い思考は、ほぼ“他力本願”であり、自分の失態や敗北の原因を、全部外的要因で片付けようとして敵を作り過ぎる点が見える。故に、敵対する相手が“何らかの事情”で、自分の手を汚さずに消し去れたら喜ぶし、自分の考えが正しいと思い込んで間違ってたら、その責任は、意見に賛同し行動を取った最前線の人に濡れ衣被せて逃げる算段である。こういう輩は、それこそ西遊記孫悟空と釈迦如来のバトルと一緒で、悟空がどんなに筋斗雲使って長距離飛ぼうとも、如意棒で岩山を砕いたとしても、釈迦如来の掌の上で暴れてただけで、それどころか釈迦如来はほぼノーダメだった事実を突き付けられた挙句、岩室に封じられて、玄奘三蔵奉仕が来るまで400年もの間、身動き一つ取れずに苦しむ事になったのは、あまりにも有名な故事だ。

 

つまり、“自由”には、それに似合うだけの“制限”がある…民主主義にも、単に基本的人権が保証される裏には、如何なる立場であっても社会を支え合う対等な存在として尊厳を“連帯責任で守る”義務がある。そこに人種や宗教、学歴、LGBTQも、身体ハンデも、年齢も関係ない。組織にいる以上は、分相応の“責任”を、全員が背負ってるからこそ、睦み励まし支え合うという概念に至るのであり、そこに上下貴賎はあってはいけない訳である。ここを忘れ、手柄を欲して責任逃れしようと暴挙に出るなら、当然の如く世間からも排斥される事になる。

 

 

どんなに格好付けてロックな生き様を誇示してても、人間的な最低ラインのモラルは踏み外さないから、普段は嫌われ者でも、それで孤立無縁状態でも、愛さずにはいられない存在として、多くの人から支援される。逆に、学歴が優秀でも、肩書が立派でも、輝かしい功績があっても、人の道を踏み外して暴れる以上は、世間から蔑まされるのも無理ない話。そして、真の意味での多様性とは、誰一人として自分の身勝手で社会の秩序を乱せば、更なる規制を“全員”が受ける事になる…ここを自覚し自制できてこそ、自由民主主義は維持できるって事に気付き、自分の発言や行動に責任を持つ事です。

 

悲しい事に、世界中どこを見ても、この境地に達成できた国や地域は存在しません…自己顕示欲と承認要求に抗えず、感情的になって暴力で解決を試みるからです。でも、所詮暴力は一過的な解決を見ても、永続的な問題解決には至りません。故に、継続的にモラルの維持と、誰でも守れそうなマナーやルールの確認、そしてその意味を深く理解する為に、単に解説するだけでなく、“一緒に履修する”事で次世代に正しく継承させる事が、真の教育なのだと思うのです。さて、ここまでのことを言っても、目の前の子供を見下したり、邪魔者呼ばわりして虐待に走ってる人は、どう叱ってやりましょうかね?