迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

バイトの仕事が過酷になってる背景…

SNSで散見される非正規雇用(バイト・パート・派遣社員)に関する話題で、よく出てくるのが仕事量の割に待遇が劣悪という話。でも、この背景を精査すると、実は労使交渉において雇用主と就労者で決めた“約束事”そのものが間違っていることと、プラスして、“消費者意識”が経済を理解できずに明後日な方向に行ってる事が原因と考えて差し支えがないと思う。つまり、景気回復の実感が沸かない最大の原因は、物価上昇は人件費のせいにして、製造現場や職人の地位を見下した結果であり、また、非正規雇用が多いのは、労働力の“使い捨て”で、価格を抑えてる事を“消費者”自身が理解できてない事に尽きる訳である。言い方変えると、“消費者=就労者”である以上、物価上昇で生活が変わらんのは当たり前なのに、そこを“否定”した結果、本来であれば重要な職務を担う人材の育成ができないまま社会そのものが劣化してる訳である。

 

特に飲食店での炎上事案の多くは、正規雇用(チェーン店における本部雇用社員)にやらせるべき、衛生管理やリスクマナジメントの類を、“手当つけるから”という口実で学生バイトにやらせてるのが原因であり、特に調理場の床に食材落として踏みつけたり、ゴミとして捨てた食糧残渣を消毒済みのまな板に置いたりといった動画が上がるのも、“責任者がいないからw”という事で、いわゆるYouTuber気取りで“炎上商法”に出る訳である。学生バイトにしたら、自分の思う時間帯で就労したいし、将来フリーターで継続するつもりもないから、メジャーな外食チェーン店で無茶振りする正社員(特に店長)にしっぺ返しするつもりが、結果として企業として個人的に賠償を命ぜられて“人生詰んだ”状態になってる訳である。

 

ここで、誤解されないように、なんで非正規雇用にマネジメント業務までやらせるかという背景について解説すると、実は事の始まりは、小売業での“働き方改革”として女性パート従業員に“役職手当”をつける制度が導入された事がきっかけになる…これ、今から30年以上前の話で、パートとして職務復帰する女性従業員に対し、パート契約で賃金を下げる代わりに、技能や取得免許(酒類販売免許とか、医薬品登録販売者とか…)に応じて“役職手当”として減額分の賃金を保証し、スキルアップする毎に報酬を付けるというシステムが導入された訳である…要は、店舗を知り尽くした“地元主婦”に店舗経営を任せる事で、本部社員の“店舗勤務”を減らし、その差異による人件費削減を画策した結果、正規雇用者以上に働くパートや派遣社員が珍重されるようになった訳で、コレに飛びついたのが飲食業な訳である。

 

つまり、メディアがこの“成功例”を取り上げた結果、日本の多くの企業が真似た訳であり、パートや派遣でも“特殊スキル”を有する人対象に正規雇用以上の待遇を提示したのが間違いであり、そもそも“特殊スキル”の多くは、正規雇用職業訓練の一環として講習を受け、一部は国家資格として試験を受けて取得したモノであり、それを“安価”で手に入れようと模索するから“人材不足”になる訳で、故にバイトに対しても資格保有を強要する訳である…しかも、講習費用を実費負担させようとする時点でお察しである。但し…一部の鉄道会社で運転士募集時に研修云々を“実費負担”としてるトコがあるのは、いつ鉄道事業を“廃業”するかわからんトコであるからってのと、電車や機関車の運転免許は国家資格であり、一度取得すれば、他の鉄道事業社局に転職しても“運転士”として即戦力になるからといった事情があるw

 

話が逸れたんで元に戻すと、ハンドメイド作者に対する暴言と一緒で、要は技能や職務の本来の価値を無視して“価格”だけでブーブー言ってる人が、メディアやSNSで暴言吐いて拡散してるから、低賃金のバイトに無茶振りをする訳であり、また、こういった面倒な職務をこなせる“専門家”を“無駄飯食い”と言って切ったせいで、無責任な経営が跋扈する訳である。そこに拍車かけてるのが“消費者”としての立場で、無理難題を事業者に吹っかけてる当事者…つまりは就労者自身である。ここんトコを誰一人学んでこなかったからこそ、日本の雇用情勢が劣悪になるのであり、改善することなんてない…“自分”が求めた“結果”だけが目の前にあるだけで、それ以下も、それ以上もないのです。

貧困児童を救済する術は、宗教的戒律を用いて判断すべき?

大手コンビニが“子ども食堂”を運営するってニュース見て、何気に批判してる人の多い事…だったら、こういう“貧困救済”に関連する事業は、全て宗教団体の施設でやるべきって言わないと、本末転倒な話になるでw 理由は至ってシンプル…宗教法人法で、都道府県に届け出を出してる宗教団体の、信徒から徴収する“浄財”が所得税免除なのは、地域に根ざした奉仕活動の資金として運用される事が前提になってるから。つまり、信仰と関係なく、生活苦で駆け込んで来た者に対して、必要最低限の施しを行う事が前提にあり、その為の場として、宿坊や食堂を構える寺院や社殿がある訳で、災害時の避難所として境内や本堂を解放するのも、その一環である。そこんトコを理解せず、横柄な態度を取る宗教アレルギーな人程、大声張り上げて宗教批判するから困る訳で、個人レベルの支援活動は限界があるからこそ、宗教団体や大企業の慈善団体が協力を申し出るのであり、そこと雇用や賃金の話を絡めるのは、場違いの説法でしかない。

 

 

ま、大企業が慈善活動に乗り出す資金があるなら賃金上げろという意見は、わからんでもないが、そのために物価が高騰したら、文句いうう時点でお察しである…だから大企業ほど(てか、日本の企業の多くが)価格変更の“理由”に人件費を言わないだけで、価格を据え置くには、それこそ“労基法なにそれ美味しいの?”な経営を取らざる得なくなるw つまり、今の景気後退要因の一つに、消費税分の賃金上昇を理由にした価格改定を批判してる人によって引き起こされてる部分があるって事である。逆を言えば、そういう経済の根本的な仕組みを理解し、“物価上昇=賃金上昇”という図式を認めない以上は、貧富の差が更に広がるだけで、結果、歪な社会共産主義の末路と同じになる。

 

以前にも指摘したが、富裕層から資産を巻き上げたいのであれば、分相応の“サービス”を施すのがスジであり、“利用者”として店舗や施設を訪れているのであれば、そこに従事してる関係者各位に対して“報酬”を支払わないなら、どんなに大富豪でも“客人”としての資格はない。まして、“子ども食堂”は、利用対象が小中学生中心で、経済的に支払い能力も乏しいからこその“低価格”であって、万民向けフードバンクみたいな運営をやるにも、守銭奴貧困層に混じって変な文句を言い出したら、どんな慈善活動も運営が頓挫する。

 

また、ハンドメイド作家に対する言い掛かりと一緒で、作品にケチ付けて原価以下で手に入れようとする行為を正当化してる時点で、大企業や宗教団体に喧嘩を売る度胸がないから“弱者”に矛先向ける訳である。とんでもない話ですw 何度も言いますが、今の貧困の多くは、“貧困”を言い訳にして経済破綻を“自らが望んだ”結果であり、本来であれば人件費(=賃金)が高騰してる事を理由にした値上げを認めてやるべきであり、そこを“批判”したから賃金も待遇も改善しないのです。

 

イスラム教の戒律には、富裕層は配下の民に対して最大限の施しを促すモノがある。仏教でも、富裕層に対して供養をケチるなと諭す教えがある…いずれもコレは、欲動しく財産を集め、独り占めしても幸福には至らないとしてる理由に、余計な恨みや妬みを集める一凶としてるからであり、等価交換の理に則して尊重し合う姿勢として、金銭授受や取引を行うべきとしてる訳である。まして、どんなに億万長者として世間からチヤホヤされても、どんなに異性から絶賛される容姿であっても、その精神が餓えた状態…自分が本当に欲してるモノが手に入らなくて、だけど、それが何だったかを忘れてしまって迷ってる状態では、何をしようが感動も歓びもわからないし、勝手に“自分の居場所”すら失って、“生ける屍”になるだけです。コレがどんだけ寂しくて、どんだけ哀れか…

 

“信仰心”とはつまるところ、世間に、あるいは自分の周囲に対する“信じる心”であり、“自分の居場所”をきちんと見定める所作であり、自分自身を向上させる原動力です。それを教え、鍛える場が宗教の本分の一つであり、その一環として、地域との交流と慈善活動があるのです。当然ながら、組織としての企業も然りで、“将来の利用客”に対してできる範囲でのホスピタリティを示すのは、先行投資の意味合いがあり、それを通じて成長を見守る事が地域貢献の一環として挙げられたまでです…そこを批判して見下してるのは、単に“支援の輪”に入れずに僻んでるだけにしか見えません。高学歴で優秀な学者気取りをするのは結構ですが、その前に、自分ができる“貧困救済”を、自らの手で行ってから批判して下さい…目障りですよ、貧乏人から見ても、その態度は。

いじめを受けたら“やり返す”のが原則…w

タイトルを見てキョッとした人…ま、感情的に正常ですw しかし、文章だけ見て判断する人は、正直、浅はかで思慮深さのない人だと思うし、哲学の観点から見たら、相当イヤな思いをした人なんだろうと推察する事ができる。“やったらやり返す”のは原則…でも、原則には必ず“例外事案”ってのが存在し、そこを弁えずにゴリ押しすれば、必ず問題が拗れて“最悪の結末”しか残らない。それを受け入れられる人だけが、いじめに対する“報復行動”を取って良い訳であり、その“報復相手”を間違えてはいけないのである。

 

以前にも解説したが、儒教における上下関係において、“被害者”は“加害者”よりも庇われて当然としてるが、それはあくまで相対関係にある状態だからこその話であり、それを“理由”にして、当事者以外の存在に対して、報復行動や横柄な態度をとれば、途端にその関係は“ご破算”となる…つまり、“被害者”としての立場を“放棄”したと見做される訳である。ココを勘違いしてる人が多い事…特に、人権擁護を訴える市民団体の幹部とかw

 

閑話休題…“いじめの報復”をやるには、3つの“条件”がある。それは、

 

・“自分”に対して本当に“価値のある行動”であるか

 

・報復すべき“相手”の“何を奪って良い”モノなのか

 

・“対等な存在”として認めるか

 

ここに尽きる。特に子供の時のいじめの多くは、そういった“人生の価値観”を知らないままやってるが為に、大人が頭ごなしに叱ってもわからないし、ましていじめを苦に自殺しても、遺族はともかく、主犯格にその“痛み”が解ることなどない…時が経ち、“真実に触れた際に、それを理解できたとしても、すでに“相手”がいないから、いくら泣き叫ぼうと、反省の弁を述べても、“あの日”は戻ってこないし、その“事実”は、当事者全員が墓場まで…否、来世の後生まで背負う宿業として残る。それがどんな“結果”として出てくるかは、誰もわからない…が、必ず“それ”は、自身の生命の奥底で燻り続ける事になる。

 

社会人のいじめもまた然りで、子供と違うのは、そこには自分自身の“存在価値”を賭けた、つまらない“勝負事”が孕んでる事が多い…つまり、分不相応な立場でも、“生活のため”という大義名分を振りかざして、周囲に対して阻害する行動に走る訳であり、その態度が、いかに“幼い”かって事に気付いてないから、他人…しかも技能や知識が優れたる若者や職人が、“自分が与えた仕事”を“勝手に断る”事が許せない様になる訳である。特に日本人は、この気質が強いから、どうしても“長いモノに巻かれろ”がまかり通ってしまいがちになる。(ま、この諺の元の意味は、全然違うんだけどな…)

 

つまり、いじめを受ける度に、“加害者”に対しる怨みが積もるが、それに対して殺意を抱くには、相手の“人生”そのものが、分相応の“価値”があるかどうかであって、そこを鑑みずにやっちまったら、それこそ自分自身の“人生の価値”がダダ下がりになるのは当然だし、特に子供の時のモノなんてのは、多くの場合は自己満足のためにやってるというより、周囲の大人に“構って欲しい”からこその“問題行動”に過ぎない。それこそ“誰でも良かった”な話で、いじめた相手が“反撃”しないことを良しとしてる子供の場合、その“両親”を見たら、どんな“家庭”なのかがよくわかる…オイラの経験上だけで言えば、大概は父親が地方議員で嫁さんにワンオペ育児を強要してたり、両親ともに教員で祖父母もそれを自慢するあまりに、ある意味で育児放棄状態だったり、テストの成績以外興味ナシな町医者の家庭だったり…といった“裏事情”が透けて見える訳で、こういう家庭事情を抱えた子から攻撃を受け、やり返すと、大概は更に酷い目に遭う…が、その“理由”自体が自分が“叱られた”のは“お前のせいだ”という言いがかりであり、分相応の“痛み”じゃないのに大袈裟に騒いで“被害者”と“加害者”の関係をひっくり返そうと躍起になってるだけである。“相手”が透けて見えると、いじめそのものが苦になる事などないw だって、自分と相手の関係が“対等”な存在として、無意識のうちに“認めてる”から攻撃するのであって、その“関係”を断ちたいなら、無理にこっちが付き合う必要はない…これも“いじめに対する報復”のあり方であり、ぼっちでも苦にならないほどタフな神経になれば、自ずといじめを仕掛ける輩は、“自分の居場所”を自ら失う事になる。

 

“やったらやり返す”とは、どこまでも“相手”の存在を“自分が認める”所作であって、“存在”を認めないなら、何も“相手”になる必要などない。“自分”と対等なる存在として“認めてる”からこそ手を出した以上は、分相応に付き合ってくれる“腐れ縁”として忘れてはいけない。それが“怨み”の本質であり、もし“被害者”がそんなことすら全部“忘れた”と笑ったら、それは今までの行為が“無駄”だったと思う方がいい…“加害者”としてすら“存在を認めない”という意思表示だからだ。逆を言えば、“加害者”が“被害者”の存在を“忘れる”ってことは、そういう“出来事”すら忘れ去る事で贖罪したと勘違いしてるだけで、単に報復を恐れてるだけである。ま、双方が“忘れた”方が、互いの幸せを潰し合う馬鹿げた結末を迎えずに済む訳なんだが…。

ラジオ好きが惹かれるテレビ局?!

まずは、コレを聴いて欲しい…っと言っても、radikoのタイムフリー機能は放送1週間以内でしか再生されないんだが、おそらくMBSラジオの公式での番組オンデがあるかと思うんで、リンク切れの時は気になった人は検索してくれw

 

で、今回の本題は、豊田アナに限らず、カンテレ在籍のアナウンサーは総じて、ラジオに興味持ってアナウンサーになる人が多い傾向がある。時代背景もさることながら、基本的に、ラジオ番組への憧れが転じてテレビに移行するパターンで、かつ、そのきっかけが競馬に限定すると、ラジニケよりもカンテレに行きたがる…ま、それだけきよぽんの影響力が強い訳だがw

 

しかし、カンテレのアナウンサーの“ラジオ指向”は伝統的な部分があって、その発端を考察すると、確実にCRKとカンテレの“合併話”が絡んでくる事が見えてくる。この話題に関しては、このBlogで散々取り上げてきた話であるから、“われラジ”の過去記事を引っ張り出せば出てくるかとは思うが、カンテレの黎明期は、それこそ、CRKでの合同アナウンス研修が必修であった訳であり、それは当時として、ごく普通の話だった訳である。

 

カンテレとCRKの関係に関しても、過去に何度も取り上げた話なんで、詳細は割愛するものの、黎明期のカンテレアナウンサーは、それこそ今の関西AMラジオ災害協定のルールに応じた格好で、テレビにも臨んでいた訳であり、故に、フリー化する際に一度は、ラジオで番組を持ちたがる訳である。ただ…その関係が崩れてからは、OBCラジオ大阪が補填する格好になった訳で、故に、OBCアナウンサーがテレビに出るとなれば、通常だとカンテレのローカル枠が使われる訳である。ここに関してざっくり説明すると、OBC産経新聞社系のラジオ単営局であり、そもそもの開局理由がNRN(LFニッポン放送とQR文化放送の共同ラジオネットワーク…原則、ここに加入してないと“オールナイトニッポン”や“走れ歌謡曲”などのネット放送はできない)の補完放送できるラジオ局が必要だったのと、その役割をCRKから“剥奪”する“事件”があったことに起因してて、決してCRKそのものと無関係ではないトコがある。

 

CRKからの出向だった松本暢章アナは言うまでもなく、70年代までに入社してるカンテレアナウンサーは、少なからずともラジオ放送の研修を受けていて、それを基本とするアナウンス研修を受けている。この件に関してはカンテレの社史にも記載があって、そのバックボーンがあるから、ラジオへの憧れが人一倍強く、故に、ラジオに出るとなれば、局の垣根など“どうでもいい”的なノリになる訳であり、フリー後に、いとも簡単にレギュラーで番組をガンガンやっちゃう人がいる訳です…ま、その最たる例が征平ちゃんであり、ヤマヒロだったりする訳で…w

 

公平・対等とは、条件次第…

先に結論を言えば、いかなる差別も、結局は他人よりも“特別”な存在でありたいと願う事と、故に“同じ待遇”を望むから生じるモノであり、自ら望まぬ侮蔑や屈辱は、一切有り得ない…つまり、如何なる栄誉も功績も、その“裏”を返せば、その分野以外の部分で非難中傷を受けてる訳であり、万民から無条件で愛される存在とは、その逆は嫌われ者としての一面も存在してこそな部分もあるってことになる。

 

どんな場所でも、“公平”と“対等”を求める声が上がるが、そもそも、その“条件”を飲むか否かで答えが変わるのであり、“条件”が合わないのに関わらず、無理に関わろうとするから“不公平”な扱いを受けるだけである。もっとも、特別な存在として扱われたいというなら、話は別な訳で、その“特別”の意図を理解できてないと、結局はその勘違いな態度が原因で、折角の機会を台無しにしてしまう事になる。つまり、“特別”とする理由が何なのかを理解すると、それゆえの“屈辱”を覚える場合もある訳であり、また、それを“辞退する”と意思表示する事で、相手の接し方が変わるのは、そういう事である。

 

さっきも書いたが、“条件”が違えば、その分相応の対応が求められる訳であり、それが“できない”のであれば、条件に見合う者からすれば“邪魔”でしかない。だからハブられる訳であって、自分が相手から提示された条件に従うのであれば、そこに不服を言ってはいけない。但し、この“条件”そのものが法令違反なら話は別…それこそ、秩序を乱す行為を他人に押し付けてまで、他人の人生を蹂躙する筋合いなど、何人たりとも有してはいけないのであり、もし自分がそういう無茶振りを他人に要求したら、その報いは必ず、自身も何らかの格好で受ける事になる。即ち、これこそが“不幸は自らが望まぬ限り訪れない”という法則であり、ある意味で誤ったカタチの“願兼於業(がんけんおごう)の姿なのである。

 

身障者だけの国際競技大会であるパラリンピックが、オリンピックの後に行われるのも、原則として身体に何らかのハンデを抱えた人と、五体満足で心身共にに問題がない人が同列で同一競技をやったとして、その“結果”に不平不満が出るのは、火を見るよりも明らかで、そもそものハンデが違えば、同じ競技でも“使える機材”の差で結果だって大幅に変わってくる。同じマラソンでも、車椅子ランナーと視覚障害で伴走を要するのと、通常のランナーでは当然ながら、条件そのものが違いすぎて、同時スタートでやる事自体が危険である。(ホノルルマラソンでも、レース前日に車椅子部門のレースが組まれていて、車椅子と一般ランナーの接触による重篤な事故を未然に防ぐ対策が取られる程、車椅子のレースは、アスリートクラスになると激しいモノになる…冗談抜きで)だからこそ“分けている”のであって、単一化すべきという意見は、気持ちとしては理解できるが、“無理”と言わざる得ない…

 

だけど、“その世界”の中で一流とされる人が、なぜ他方では馬鹿にされるのかを考えれば、自ずと答えは見えてくる…賞賛されたいのに、その“条件”が違うからこそ馬鹿にされるのであり、その“条件”を知った時、初めてそれは途方もない“無礼”だと認知できるモノである。条件を“知らない”からこその“無礼”なれば、当然ながら条件を知るためのチュートリアル(解説)が必要なのはいうまでもない。そこを面倒臭いと拒絶してる以上、マナーレスが増えるのは無理ない話だし、まして“公平な扱い”なんてできる訳がない…無知を“無知”のままで放置せずに、常に学ぶ姿勢を忘れない様にするのが、学校での“勉学”の本意なのです。昨今の教育現場は、その肝要を忘れた内容が多過ぎて、学びの場で混乱してる子供が気の毒で仕方ない。

阪神間の三空港に関する、複雑過ぎる事情…

“関西”とせずに“阪神間”とした理由は、伊丹・関空・神戸以外に、旅客航路を扱ってるのがコウノトリ但馬と南紀白浜の空港が含んでしまうためと、小型機・ヘリコプターも含むなら、八尾空港も含まれる話になりかねないからである…ま、大概関西圏で“空港”というと、先述の三空港のはなしになるんだが…

 

 そもそも、なんで阪神間に3つも空港ができたかって話をすると、2つの“問題”を起因とする、自治体…というより当該地域の市民団体のクレームが、全てを語る上で避けては通れない訳で、更に混乱する要因になってるのが、24年前の阪神・淡路大震災である。つまり、カネにまつわる汚い話と、震災復興の雇用確保という、全く別次元の話がゴチャ混ぜになって起きた話って訳である。

 

全ての事の始まりは、伊丹空港の国際化に伴うジェット機の発着枠問題で、その要因の一つに、大阪(千里)万博の開催が絡んでる訳で、開港当時の空港周辺は、牧歌的な田園風景が広がる田舎だった訳である。で、万博終了後に急速な宅地開発が進み、国際線のみが大型ジェット機での運行だったのが、国内線でも幹線航路にジェット機を導入し始めた事によって、離発着時の騒音が問題となり、伊丹空港周辺11自治体…大阪府兵庫県に跨る11市町の市民団体が、国を相手に空港移転と廃止を求める裁判を起こした訳である。ただ…別の市民団体は、伊丹空港を離発着する時に発生する空港利用税の“旨味”が捨て難いとして空港存続を訴えた訳で、ここの部分で国も頭を抱えた訳である。そこで、“国際線専用”として、大阪湾の一角に人工島を造って、24時間運用可能な新空港を開設する計画を立ち上げた訳である…これが現在の関空が建設される訳なんだが、その建設予定地に関しても一悶着があって、当初は兵庫県側は神戸港沖への移転を推奨したんだが、なぜか神戸市が大反対して頓挫…で、大阪府側の意見として泉州沖と大阪市ベイエリアの2候補を提案し、結果として現行の泉州沖に決定した訳である。(で、のちにふるさと納税制度で、泉佐野市が財務省総務省の指摘を無視してLCCの往復航空券を返礼品にしてる訳でw)しかし…

 

関空が開港して4ヶ月後の1995年1月17日、あの忌まわしき震災が神戸の街を壊滅させた。この時、皮肉にも神戸沖でなく泉州沖に関空と作ったことは“正解”だった訳で、仮に神戸沖に関空が作られていたら、おそらく空港設備の多くが被災して、伊丹空港周辺もボロボロだった事を踏まえると、関西圏から“空の玄関口”を、完全に失っていた可能性があった。そんなこともあって、とにかく神戸市の人口流出を食い止めるためにも、公共事業による雇用確保が不可欠となった訳で、復興に必要な財源を確保するためには、観光事業に特化するしかないとして、国際貿易港としての神戸港に、更に“空路の港”も作ろうという、完全に明後日な方向へ計画を立てたのが神戸空港の開港に繋がる訳である。

 

つまり、三空港が抱える一番の問題が、この“空港利用税”という収益であり、その取り合いが激化してるから色々とややこしい話が出る訳であり、伊丹空港が24時間運用可能な国際空港として開発を進めていたら、騒音問題で騒ぐ市民団体を説得するのも大変だっただろうし、かといって関空も去年の台風被害から、様々な問題点が浮き彫りになった訳であり、完全に後手に回った神戸市の、“市営空港”として失敗したからこそ、関西エアポートへの“経営統合”が行われた訳である。実は、今の三空港は一つの経営会社に統合されていて、ゆえに、三空港の状況に合わせたシフトが組めるようになってる訳であり、1カ所がパンクしかけたら、残りの二空港に振り分けることもできるようになってる訳である。ま、同じ様な飛行ルートを辿るんで、どれか一カ所が“受け入れ可能”となってたら、(機材にもよるが…)緊急着陸をやろうと思えばどこでもできるという強味がある。

 

とはいえ、実は三空港とも交通アクセスにちょっと難があるのは事実で、関空と神戸の場合、陸路が連絡橋以外存在しないため、連絡橋になんらかのトラブルがあると、対岸の市街地への移動ができないという弱点があり、伊丹は鉄道とのアクセスがモノレール以外、直通しないという欠点があり、しかも宝塚や有馬温泉へ向かうには、一旦大阪市内に出るか、最寄りの駅まで路線バスに乗るしかないという不便さがある。(レンタカーやタクシーを利用するにも、周辺道路が結構大回りばっかで、すんなり行けるルートがないw)特に阪神競馬場園田競馬場から直線距離だとゲロ近な(しかも園田のコース脇から離発着が見える)のに、移動に最低1時間は見とかないとダメという…近くて遠いって揶揄されるの、どうにかなりません?

“被害者”とは特権に非ず…

ネット界隈では未だに騒がしい、韓国軍レーダー事件。事の発端というか、そもそも、この問題の本質は、在日米軍が掴んでた情報を基に、海自のP1哨戒機が日本海のZEE(排他的経済水域)を警戒のために飛んでた事によるモノであり、その“情報”というのが、経済制裁している北朝鮮に対する物資援助を、どこかがこっそりやってるというモノで、裏付け捜査も兼ねたモノだった訳であり、まさか“同盟国”が裏切り行為をやってるとは、考えたくなかったからこその話であり、ゆえに韓国政府の態度に対し、一番失望したのは、在外韓国・朝鮮人自身である事は言うまでもない。ただ…韓国を擁護するつもりではないが、こういう国際法をガン無視した態度の背景にあるのは、儒教の教えそのものが“都合のいい解釈”に基づいて拡散された事が一因にあり、それを後生大事に受け継いだ弊害であることを哀れむしか他にないだけの話である。

 

儒教とはあくまで、宗教哲学の一部であって、日蓮仏法も含めた、様々な宗教哲学を学ぶ上でのゲートウェイである。つまり、宗教全般で共通する概念を知るための手がかりであり、あらゆる理念の触りの部分が儒教の本分である。故に、教えの一部には、年配者や指導者に対する敬意を重んじる部分があり、物事において“被害者”は誰よりも優遇すべき存在として扱うべきとされている…実はここが問題点で、韓国・朝鮮人の多くが、ここを勘違いして“正義論”を唱えてるからおかしいのであり、その指摘を何度繰り返しても直らないのも、実はこの“一凶”に尽きる訳である。誤解がない様に説明すると、“加害者”は“被害者”から見た際に序列的に下劣な存在として扱われるという“誤解”が、事を拗らせてる要因の一つにある訳だ。

 

東京のとある公立高校で、教師が生徒に暴行を加えたとする動画も、事の発端を精査すると、“被害者”は自分の立場を利用して教師を怒らせた挙句殴られてる訳であり、“加害者”として吊るし上げられた教師は、本来であれば“教育指導”の一環として口頭による注意を何度もやったも関わらず、悪態を付いた事から“言葉が通じない”として、言語を音声から拳に変えたまでに過ぎない。つまり、普通の口頭のみで通じる相手ならそこで済む話でも、そもそもの“言語”が違う時点で通じないのは当然で、故に“わかりやすい言語”として用いたのが物理攻撃…って訳である。

 

これと一緒で、そもそもの“言葉”…つーか、聴覚で認識可能な言語を用いても通じない相手に、何度交渉を試みても通じないのであれば、それ以外の感覚を用いて“対話”するしかないのであり、時としてそれば、物理的な方法だったり、表現力を用いた方法だったりするだけで、その“結果”に関して、双方以外が理解する事は“不可能”である。故に、第三者が介入して事態が収まる事ができる場合とは、双方から見て介入する第三者が“中立”である必要がある。実はコレが一番“難しい”から、大概交渉が“決裂”する訳である。“対話”という方法は、文章としては“話し合い”なんだが、その奥底にあるのは、“言語”を弁えた上での認識を行う所作であって、“相手”が指定した“言語”を用いない限り成立しないのである。

 

話を韓国政府の態度の戻すと、日本を非難し、侮辱する理由は、朝鮮半島の平和と安寧を“約束”したのに“守ってくれなかった”という被害妄想に縋ってるのであり、今までなら、日韓の間で通じてた話として処理されてきた訳だが、それを“理由”にいつしか自分達が“加害者”の立場になっている事に気付かぬまま、横暴の限りを尽くした訳であり、そこを認めてしまうと、一気に“被害者”として優遇されてきた事柄が帳消しになるjことを恐れるあまりに、国民に対して、そして国際世論に対してまでも嘘を突き通さねばならない程落魄れた訳である。当然だがそれは、中国やロシアも同じで、ただ、大きな違いがあるなら、“過去の遺恨”を理由に相手を見下す行為は、ひいては自分の地位を自身で傷付ける行為だと認識してるからこそである。諺の“負けるが勝ち”の理を、弁えた態度だからこその話だ。韓国の社会は、それが未熟なまま今日まで来てるから、どこの地域でも“トラブルメーカー”扱いされてしまう訳である。

 

単純に“被害者”と“加害者”ってのは、どこまでいっても一つの事案に付き一組でしかない訳であり、その“関係”も、“一つの事案”のみに成立するモノである。よって、いじめ被害を受けた経験があると言っても、報復すべき相手は過去において、直接の接触があったものに限られるのであって、仲裁に入った者や外部の野次馬は、報復対象から外すのが常である。仮に、相手が弁済責任を認めても、満額受け取る必要はない…他に“被害者”がいない訳じゃない以上、過剰に優遇される必要はないからだ。また、“加害者”とて、過去の事案で他人…しかも事案とか無関係な人から叩かれたら、その時点で“被害者”に化ける。つまりは“等価交換の理”に基づいて、“対等な立場”でない時点で、立場そのものが“逆転”するのである。これを恐れるあまりに、言語を変えてやってる以上、話が通じないのは当たり前で、“対等な立場”で対話をするには、あえて“何もしない”で被害を受け続けるしかない…日本はそうやって“耐えてきた”国だから、第三国から“援軍”がきてる訳である。それでもこれを“特権”というのであれば、分相応の代償は、誰が払うべきか…そこを論じない限り、この問題は解決することなどあり得ない。