迷馬の隠れ家 はてな本館

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善意の寄付は少額でも自分を救う?!

千里の野の枯れたる草に蛍火の如くなる火を一つ付けぬれば須臾に一草・二草・十・百・千万草につきわたりてもゆれば十町・二十町の草木・一時にやけつきぬ、竜は一ゥ(しずく)の水を手に入れて天に昇りぬれば三千世界に雨をふらし候、小善なれども法華経に供養しまいらせ給いぬれば功徳此く如し
(業務連絡:今月の座談会拝読御書です。“大白蓮華”12月号、および“聖教新聞”12月7日付参照)
この御書は“新池殿御消息”というヤツで、弘安2年(1279年)5月2日に遠江(とうとうみ)国磐田郡新池(現在でいえば静岡県袋井市)に住んでる門下の新池左衛門尉に送った手紙とされてます。この新池殿という人物に関して詳細は不明ですが、日蓮の弟子・日興の折伏を受けて入信し、熱原の法難の際に日興が世話になったと推測されてます。
本分では、亡くなった子供への追善の思いから、身延まで米3石を持って来て供養とした事に対するお礼と、その真心をもって子供が成仏する様に題目を唱えたと述べてます。で、枯れ野にちょっとだけ火を放った時の如く、または竜が一滴の水を得た時の如く、たとえ微々たる御供養でも、正法に対してお供えしたモノであれば、その功徳は計り知れないと説いている訳です。

ま、こういった“御供養”に関する御書が出た場合は、大概は“公布基金へのご協力4649!!”という意味で登場する事が多い訳だが、一般的な事例でいえば、この場合は明確な使命を持った団体…例えば赤十字赤い羽根共同募金ユニセフの活動支援等は、そもそも災害時の救援活動や被災者の生活支援を目的とした募金である事はご存知の通りである。しかし、実際こういった活動支援の募金の殆どが、キチンと活用されてるかどうかは、実際に自分達がその世話にならない以上、実感がないのが現状である。
例えば、過去に献血を行なった経験がある者は、そのデータが赤十字を通じて医療機関に伝わってる事が多いため、輸血を必要とする様な事態(大怪我や輸血を伴う手術等)になった時に、献血手帳一つで助かるケースがある。つまり、血液型やどんな体質なのかをいちいち検査せずとも、献血手帳だけで解決してしまう訳である。だが、最近の傾向では、生活習慣が良くない事もあって、献血に適合した健康な血液が不足してるという。で、赤十字がやってるこの献血の費用は、すべて募金で賄ってる訳であり、コレが目減りしてしまうと、当然だが日本だけでなく世界中の医療機関が大変な事になるのは事実で、ひいては自分が世話になる事態に陥った時、救済されずに放置される危険性もある訳である。
話が逸れまくったんで元に戻すが、要するに、真面目なボランティア団体やNPO法人が、その活動を多くの人に知ってもらい、支援してもらうためにカンパを募ってる訳であり、その恩は様々な事で返される訳である。言い方を換えると、“情けは人の為ならず”という諺の“本来の意味”そのものと言っても良い。(“本来の意味”は、他人に対して善意を施す事は、決して相手の為だけじゃなく、自分自身のためでもあるという意味。)それと同じで、真っ当な宗教団体相手に寄付をする行為は、その“真心”によって価値が変わるのであって、信仰もないのに見栄を張った供物は、却って無意味である。むしろ、供養なんてする必要性すらない。本当の意味で“救済されるべき者”とは何か…それがわかってる人間は、自分にできる範囲での募金や支援を行なっているハズである。