迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

こないだの“事故”について…

オイラは“プロレス”と聞いて思いつくのが、新日と全日ぐらいで、しかもアンントニオ猪木とジャイアント馬場ぐらいしかわからないという、ハッキリ言って“無知”を通り超えて記憶そのものが化石化してるヤローであるw で、二代目のタイガーマスク(初代はボンヤリわかるんだが…)がどうのとか、受け身がどうのといわれても、チンプンカンプンである。しかし、こないだのスポーツ紙は、挙ってNOHAの三沢光晴の“事故死”を取り上げていたんで、プロレスファンに喧嘩を売るつもりで、“暴言”を書かせてもらう。
確かに、プロレスはいろんな格闘技の要素があるのは、ある程度認知してるが、基本的に柔道と相撲の“ええトコ取り”な競技としか、オイラは捉えていない。が、悲しい事に、これらのスポーツでも生命に関わる事故は発生しており、“安全な格闘技”など存在しないとオイラは思っている。そもそも、格闘技そのものが、古来から続く“命の奪い合い競技”であり、古代ローマコロッセオでは、実際にローマ市民の“娯楽”のために、侵略した土地の民族を“奴隷”にし、そこで戦わせていた事もあった程だ。

もちろん、現在でもパンクラスの様な秒殺の格闘技もあるし、タイのムエタイみたいに“引き分け”をヨシとする格闘技もある。だが、それは“選手の保護”と観客に対して“娯楽の一環”として楽しんでもらうためのルールであって、本来なら血飛沫を上げる様な戦いは御法度である。それ故に、アマチュアボクシングや日本拳法、テコンドーの場合はフェイスガード等の防具をつける事が義務になっていて、空手(K-1含む)でも胴着の中にニープロテクターやテーピングで腕や足の保護をやっている。しかし、それらはあくまで“アマチュア”つまり、一般人が“スポーツ”としてやってる分だから、通常の生活に支障をきたさない程度の保護が必要であって着けているのが普通である。問題は、柔道や相撲、レスリングといった“掴み合い”が主となる格闘技の場合だ。専用のプロテクターを着ける訳にもいかないし、第一、そんなのを着けていれば動きが阻害されて、却って危険である。だから、投げ飛ばされても、押さえ込まれても大丈夫な様に、受け身を習う訳である。
各紙の記事によると、受け身の上手さに定評があったらしいのだが、ただでさえ様々な問題を抱えてて、心労で体調不良だった上に、エース級の選手が怪我で出場できない状況。更に専門の医師を雇えない程のギリギリの経営だったという事を加味すると、様々な要素が絡んでの“事故”としか言い様がない。それは何も、とどめを刺した選手の責任でもないし、応急処置がマズかっただけの話ではない。過剰に期待したファンも、その声援に応えんと無茶した本人も、そして、それを止められなかったスタッフも、“同罪”なのである。そしてそれは、取り返しのつかない事態を招いた責任を、全員が負わなければいけない。
また、万が一、一命を取り留めたとしても、その後の姿は、どんなにファンであったとしても、とてもじゃないが正視できない程惨めな姿に成り果ててる可能性の方が高い。即死だったからよかった訳じゃないが、それはそれで悲劇である。生き乍らにして自由を奪われた時、どんなにファンが一時的に安堵しても、本人や家族、そして関係者は、地獄に突き落とされたも同然な程の絶望感を抱える事になる。これは何も、今回のケースだけじゃない。競馬や競艇での事故でも、それが原因で現役を退かざる得なかった騎手や選手がいる訳であり、その家族の苦労は、計り知れない。まして、一番苦しむのは、その現場に居合わせた医師や看護師だったりする。
実際にあった話。福永洋一騎手の落馬事故(1979年の毎日杯)の時、たまたま脳外科医の馬主が阪神競馬場に来てて、応急処置を行った事が一命を取り留める結果になったのだが、その時の医師は「本当に、あれで良かったのか…」と、当時を振り返りながら後悔していたという。事実、その後の様子に関しては、古くからの競馬ファンならご存知の通りで、今でもリハビリ生活を余儀なくされている。まして、これから老いていけば、余計に介護も大変である。
もっとも、“仕事に殉ずる”ことを本望だと思ってる者にとっては、羨ましい限りなのかも知れないが、現場にいた者にとって堪ったモノじゃなかった事は、オイラでも察しがつく。だが、身動きできずにベッドに横たわってるだけの生活で一生を終えるか、そこで燃え尽きて息絶えるかの二者択一になった時、どっちに傾いたとしても、本人の人生を“破壊”した事には変わりない。それは今後、ファンも関係者も関係無く背負う“十字架”だ。同じ事故が起きない様にするためにも、選手もファンも、この事を忘れてはいけない。そしてそれは、リング…否、“戦場”で散った多くの戦士達に対しての、せめてもの救いになる様、努めなければならない事だ。

改めて、ご冥福お祈りします。