迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

大切な人からの“最後の言葉”を、素直に受け止められますか?


先月末に亡くなられた、五代目圓楽師匠の通夜にて、弟子であり次期“圓楽”を継承する楽太郎さんは、涙をこらえながら、在りし日の師匠との思い出を話してた。愛弟子を全員真打ちに昇格させる事ができた事と、“圓楽”という名を楽太郎さんに受け継がせる事で、“やる事がなくなった”と呟いた…その寂しそうな言葉に対して、弟子として師匠に対し、“生きる事がやる事ですよ”と思ってたそうだ。でも、その言葉を聞いて、オイラは違う様な気がした。むしろ、自分自身の“やるべき事”に対して、すべての責任を果たし、全身全霊を掛けて歴史を作り上げたからこそ、次はその後の世代に“未来”を託したからこそ…否、成すべき役目をやり遂げたからこそ、虚しく歳を重ねる事よりも“次のステップ”を踏み出そうとしてただけだと思う。

最愛の人を亡くす事は、人生において、とても辛い“試練”だと思う。でも、不慮の事故や事件で殺害されたり、生きる事が絶えられなくなっての自殺と違って、病での死は“自分との戦い”そのものであると同時に、病状の悪化で亡くなるまでの時間は、各々違う。だから、まさに命を懸けて多くの関係者に、自分の“生き様”を焼き付ける。それがなんなのかは、出逢った人でしかわからない。それを後世に、“そんな人がいたんだよ”と語れるのは、そこで出逢った人だけである。だから、その役目を、自分の弟子にちゃんと託す事ができたから、気が緩んだまでに過ぎない。
でも、それをちゃんと認識できる様になるには、ある程度の教養…特に人生哲学をキチンと学んでなければ、死ぬまで気付かない。つまり、先代と同じ様に“大切な存在”を守り、育てる立場になって、“自分の成すべき事”の大きさと責任を背負い、全うした時に気付くモンだと思ってる。でも、それじゃ遅過ぎる。だから、様々な哲学を“学問”として学ぶ事だけじゃなく、実践してこそ意味があるのだ。その“ヒント”を、圓楽師匠は“最後の言葉”に隠したまでに過ぎない。
つまり、昨今の教育現場に於ける“成績主義”の正反対の方向に、真の意味での“人間らしさ”を学ぶ場として、江戸古典落語を研鑽し、それを後世に伝えていく事も大事だよ…と、言いたかったんだと、落語に疎いオイラは思う訳である。楽太郎さんの場合、どうしても頭脳の良さ…特にあらゆる知識を学ぼうとする勉強熱心なのはいいんだが、それに頼り過ぎて、聞き手側からすれば嫌味に聞こえる事ばかりやってしまう傾向がある。それをもう少し改善すれば、違う魅力も出るハズだよと、ホントは言いたかったのかもしれません。けど、それも“芸風”であるなら、それを認めてやる事も、時には必要と思ったからこそ、決断したのでしょうね。まして、残された時間が残り僅かだと悟ってたのなら…余計にそうなるのではないでしょうか。
ただ、どんなカナチであれ、“惜別の時”は、悲しいモノです。頭の中ではわかっていても、それとは別に、今まで聞けた声が、触れ合えた温もりが…そのすべてが消え去ってしまう瞬間、思い出とともに“過去”になってしまうのが、一番辛いのです。オイラでも、親族の葬式では泣かなくっても、時折思い出しては、ひとり涙を零す事もあります。(もちろん、GQ達の件でもね…)だからこそ、遺されたる者達は、在りし日の“愛しい人”の思いを背負い、後世に伝える使命があるのです。そして、その“役目”を終えた時、穏やかな最期を迎えるのだと思うのです。そこには年齢なんて、関係ありません。その“死に顔”が微笑む様な姿だったなら、それは懸命に自分自身の人生を戦った“証”です。できれば、笑顔で“また、どこかで逢いましょう”というぐらいの気持ちで送り出してやってくださいよ。先人達への最大の供養は、何処までの“忘れない”という誓いと、いつまでの“見守って下さい”という願いです。そうする事で、その魂は自分と“一緒に生きる”事ができる…そんな風に気を引き締めて、各々の人生を歩んで行きましょう。



改めて、ご冥福をお祈りします。