迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

文化と宗教…異なる社会観の意味とは。

未だにアジアの国の中には、いわゆる“男尊女卑”的な思想から来る“悲劇”が後を絶えないという。我が娘が通りすがりの青年と目が合ったという事“だけ”で、父親が自らの手で殺害したという話が、パキスタンであったらしい。もちろん、白人系…否、キリスト教が一般的な国や日本では考えられない話だが、イスラム教やヒンズー教の影響が強い国々では、こういった事は“普通”なのである。ま、キリスト教だって、他宗派の人間を大量虐殺した過去がある以上、他人の事を言えた義理ではないが、実は、その“背景”を考えた時、一概に責められたモノではない事を考えなければならない。では、何故この両親は、我が子を無惨にも殺さなければならなかったのか?

人の“死”を悲しむ事ができるかどうかは、実は宗教や民俗思想の根底…つまり、幼少期に周囲の大人が、どんな風に世間の事を教えたかに掛かってる部分がある。それは、異文化を知る最初の一歩であると同時に、子供だからこその想像力や洞察力を、如何にして大人が“封じる”かという部分にも掛かっているともいえる。つまり、相手の“痛み”や“喜び”を、自分自身でも想像できるかどうかは、この多感な時期にいろんな刺激を、どの様に与えるかによって変わってくる訳であり、ここの部分で他民族の悪口や批判を押し付ければ、当然ながら、そういった部分の“知識”が先行して、本来なら身に付けておかなければならない技術や関係性が、おざなりになる。もっと言えば、関係先がどこでどうなっているかを推察する事を嫌えば、その表面状だけで判断する事ばかりに囚われ、重要な部分での見落としを招くという事。
昨今、ニュースでも目にする様になった“ヘイトクライム”(差別的動機)も、実は、この幼少期における大人達の勝手な“決めつけ”が、後々その子供が大人になった時の“判断基準”になる訳であり、また、それ故に犯人が、まったくの“別人”であったとしても、初動部分での“固定概念”がいらん仕事を増やして、結果、真犯人の“思惑通り”になる訳である。つまり、イスラム教を憎むあまりに、直接の危害をやっていない、まったく初対面の相手を無言で殺害する…という惨劇が起きる訳であり、仮に相手がアラブ系であっても、他の宗教に属していたなら、これは完全なる“無差別通り魔殺人”という事になる。そう、これは“愛国無罪”を理由に富裕層から金品を略奪する中国の貧困層や、“欧米憎し”で外資系企業を攻撃するかつての学生等にもいえる事で、結局は、そこにある安っぽい“正義感”が、安易な破壊行動へと突き進む元凶ともいえる訳である。つまり、ヘイトクライムも、些細な事での“名誉殺人”も、その根幹にあるのは、自分自身の“安易な正義感”が解出した姿であり、そこの加減を、周囲が注意しなかった事により、更にエスカレートした状況が、今日の“人間不信”に繋がる訳である。
正月早々から、重い話になるが、宗教は、その地域に根ざした文化の基盤でもあり、また思想や社会そのものでもある。それ故に、その指導者が個人的な恨み事を抱えてたり、その周囲がエエ加減だったりすると、当然ながらその教義や思想も歪んでくる事になる。わかりやすく言えば、どんな宗教も、その教えが広がるには批判される事が常であり、賛同する者はいない。しかし、信徒達が世間でどのような行動するかによって、その評価は様々になる。そして、今日まで生き残った宗教の殆どは、カルトな部分と一般常識から逸脱しなかった部分が織り交ぜになっていて、その中から、その地域・風土に合ったスタイルで伝播していくのであり、それが様々な宗派を生み出した…という事になる。つまり、親が子を殺す背景にも、旧来からの民間信仰新興宗教がいつしかゴチャマゼ状態になって伝播した“影響”であり、そこんトコをどんなに国の法律で裁いても、別の地域でも同じ過ちがまかり通る様になる。そう、現行の法律よりも、昔からある風習の方が、いろんな意味で“重要”とされてきた人達にとって、それが“差別”とは言い難い側面もある…という事に気付かないと、その人達の印象だけで、他の同系宗派の信徒を侮辱する事になりかねない。さっきも出てきたヘイトクライムも、結局はそこに行き当たる。
本当に“最悪の事態”を回避する為には、差別も敢えて受け入れられるだけの寛大さと忍耐が必要であり、それに耐えられない人ほど、自分よりも“弱い”存在を潰す事で、自分の弱さを誤摩化し、他人に変な強がりを見せる訳である。言っちゃなんだが、どんな分野の人にも、それ故の“弱点”があり、むしろそういうモノがない人ほど、実は汎用範囲が広い分だけ使いどころが“ない”訳である。身障や精神疾患でも、その特徴を活かせば、逆に一般の健常者以上の能力を発揮する事ができる。特に自閉症と判断された人の中には、類稀な集中力の持ち主がいて、しかも精密で高度な技術が必要な分野では、誰にも負けない自信がある人がいる。つまり、これも“才能”なのであって、努力してできる様になる人よりも、遥かに高いスキルを持っていると言える。逆に、何十年も費やして身に付けた技術を、たった数日の経験だけでモノにできる人がいたとしても、それ故のハンデがあるからこその話であって、決して経験や努力が“無駄”という訳ではない。むしろ、そのスキル故の“犠牲”を、ドコで払ってるかの差である。先天的な視覚障害も考えようによっては、他の機関が鋭敏になっている可能性があり、特に聴覚や触覚が異様に精密な人もいるほどであり、それは視覚に頼りがちな健常者の比ではない。つまり、そこの部分で差があるのに、同じ事をやろうとしても適わなくて当然…という事。
閑話休題。つまり、そのハンデを埋めるのか、それとも放置かは当事者次第だが、そこの概念に“甘えている”から平気で他人を傷付ける事もできる訳であり、それに対して敏感な人間は、故に時に適った“指導”をする事ができる。それは時に、相手も自分も傷付く事になるだろうが、そこに相手に対する信頼関係があるなら、その時点で理解できる…たとえ時間が掛かっても、その“答え”を悟った時、その罪の重さと、取り返しのつかない後悔の念が自分自身を苦しめる。だけど、それを後世に教えられる様になってこそ、初めてその“答え”を、もう一度検証する事になる。そこで誤りに気付くか、そのままにするかで“答え”も変わる。その積み重ねが宗教哲学の“歴史”であり、それをどう研鑽するかは、その時に立ち合った者の使命であり、そこを避けた時点で、その正邪の判断を“捨てた”事になる…その“歪み”が、いろんなトコに影響を与える事になる。その延長線上には、いろんな宗教文化もある訳であり、それ故の民族思想がある。そこんトコを理解した上で、どう判断するかは自分次第だという事に気付いて欲しい。むしろ、そういう事から避けたいと逃げるのであれば、とにかく全てに“無関心”のままでいる事。でも、それが本当に幸せかどうかは、別問題ですが…w