迷馬の隠れ家 はてな本館

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体罰と虐待は“似て非なる“モノ。

大阪市教委は8日、同市都島区の市立桜宮高校(佐藤芳弘校長)の2年生の男子生徒(17)が先月23日、自宅で自殺したと発表した。市教委によると、男子生徒は、主将を務めていたバスケットボール部の顧問の男性教諭(47)から体罰を受けていた、と記した手紙を残していた。男子生徒は顧問から顔面を平手打ちされるなど複数回の体罰を受けていたという。市教委は自殺前日にも顧問の体罰を確認しており、自殺との因果関係を調査している。(by:毎日新聞 2013年1月8日付 抜粋)
この報道だけで判断はしたくないが、原因は教員だけじゃない。また、自殺した高校生にも落ち度があるとすれば、家族や信用できる人間…友人やネットを介して、悩みを打ち明けるべき場所と時間を、何故作らなかったのか…という部分も追求しなくてはならない。但し、これから話す内容は、あくまで“指導”と“虐待”は全く“別モノ”である事を踏まえた上での発言であって、そこを勘違いしてる様では、話が進まなくなる。何が言いたいかって?一般的にいわれる“体罰”と、報道で騒がれている“体罰”には、大きな隔たりがある…って事。つまり、受け手の“痛み”を体感的に理解させる為の“げんこつ”と、かつてスパルタ教育として名高かった、某更生施設での“暴力沙汰”は、その心理と行動が、全く“真逆”である事を知っておかないと、こういう事件はますます増える事になるだろう…なんせ、教育者自身が、他人の“痛み”を想像する事もできないままですから、ワンパンで生徒を殺しかねませんから。

まず“暴力反対”を唱える人ほど、実は今までに教育的指導の名の下に、ビンタやげんこつを何度も喰らって、痛い思いをした事を“逆恨み”してる可能性があります。実は、この“痛み”というごく当たり前な“生理現象”を、頭で理解しようと言葉で説明しても、それを記憶する事は不可能です。だって、そこに“実体験”がないですからねw 当然ですが、初心者がそれを体験するまでは、経験者の注意なんて、それこそ半信半疑です。言い換えると、幼児に危険だから機械がある区域内に入るなと言葉で言っても、それが通じないのと一緒で、実際にその痛みや恐怖感覚が欠如してると、それ故に“大惨事”を引き起こす事になる訳で、日本人の多くが、放射能に関して過敏なのは、今でこそ福島の原発事故を理由にできるが、それ以前だと、広島と長崎の原爆の経験があるから…という“経験者”としての警告を学んでいるからだと言える訳で、もしもそんな経験がなかったら、むしろ日本は世界に先駆けて、核武装した上に世界を征服してたでしょう…但し、放射性物質による環境汚染下で生き延びられているかどうかは別ですがw
これと一緒で、今の日本人は、政治家も含めて、本当の意味での戦争の悲惨さと、核武装に縋る近隣諸国の“ひ弱さ”を知らない人の方が、圧倒的に多い状況です。なんせ、60歳以上の人でも、1945年以降生まれなら、ほぼ全員が“戦争を知らない子供達”ですからねw その“痛み”や“苦しみ”なんて、経験してても赤ん坊ですから、遠い記憶の彼方の話であり、ほぼ“他人事”です。そんな人達が経験者から、真面目にその悲惨な体験談を聞いて、それ故に感化されて行動する方が、むしろカルトですねw 大概の人は、冗談半分か、殆ど聞いてない(隣と雑談してるか、寝てるか…ま、退屈してるw)訳で、その“苦しみ”を理解するまでに、それ相応の想像力と洞察力を養うのに、結構時間が掛かる事になる。つまり、経験がない分、想像がつかないし、何が起きて、どんな状況なのかを把握するのに、時間が掛かってしまうのである。
この部分を教育の現場に転化すると…もう察しが良い人ならわかるが、つまり、本当の意味での“体罰”と、相手を“奴隷”として見下し“道具”にしか思えない者がやる“虐待”は、完全に意味が違います。そう、相手を想い、自分自身を“鬼”にして振るう拳と、自分の要求に応えない者を“潰す”拳では、その結果がどう転がっても違ってきます。成長を思い、また、言葉では言い表せない“痛み”をどうやって教えるか…その意味でのビンタやげんこつは、単に“暴力”として訴えるには不十分な理屈です。逆に、自分の思い通りにならない事の原因を、常に他人のせいにしてる時点で振るう“暴力”は、既に相手の許容量オーバーなモノです。そう、今回のケースは、正直に言って正義感が強いからこその“認識不足”なのです。つまり、部活の成績を向上させようとやってるつもりが、いつの間にか自分の想い通りの成績にならない事を、部活に参加してる生徒のせいにしてた…というのが、この“悲劇”の一番の“原因”です。但し、あくまで、公の報道機関が言ってる文言を拾って、推測する範囲での話です。もしも成績不振の“原因”が自分だと悟れる様な教育者であれば、不用意に生徒を殴ったり、公開処刑する様なマネはしません。だって、自分自身の指導ミスから、生徒の本来持っているパフォーマンスを抑制した上での話ですから。でも、それがわからない…否、全て“他人のせい”で済ませて来た様な教育者であれば、誰がドコを担当したとしても、成績が向上するどころか、むしろ逃げ出す人続出ですw そう、自分“だけ”が完璧なる存在ですから、そういう“いらない子”は消えて当然です。それを、運悪く“勘違い仏”が担任となった生徒が感じたから、自殺したり、不登校が増える事で、学校そのものの存在意義や教育者の質が問われてくるのです。
重要な事は、生徒も教師も、立場は違えど同じ“対等なる存在”であるという意識を、双方が持っているかどうかです。これは、師弟関係においても重要な事で、善き指導者は、そこに師事する者達と一緒に行動し、一緒に悩み、苦しみ、そして最善策を模索していきます。その絆は永遠であり、たとえ袂を別れたとしても、道を違える事になっても、生きていく為の“指針”として、双方向で思いやる事ができます。しかし、形式上の師弟や主従関係には、その“双方向の思いやり”というのが欠如しがちです。なぜなら、自己中心的な思考で動いてますから、世話になった者への感謝もなければ、完全に無関心です。つまり、結果のみに拘れば、どんな協力者も、自分自身の“栄光”にとっては“邪魔者”でしかありません。故に、どんなポストを与えたとしても、どんなに優秀な部下を蔓延らせても、最終的にはその傲慢さ故に孤立し、それ故に失敗をすればその責任を他人に押し付け、肝心な時に真っ先に逃げ出す“臆病者”に変ずるのです。
ぶっちゃけた話、指導者が成績に拘る事によって、そして自己満足のみを追求した結果、これから成長していく若者が、その能力を完全に発揮する事無く、消えてしまっただけの話です。そして、そういう風に指導したのは、いうまでもなく、意味不明のままで“暴力反対”を訴えた人です。本当の意味で“暴力”を抑え込める事ができる人は、自分自身の“破壊力”をキチンと理解できる人です。それは、戦争体験者でなくても、本当の意味で、生きる事に真正面から立ち向かっている人なら、誰にでもできる事…それを批判した人ほど、無意識に犯した罪の重さを知らない…それがやがてうねりとなり、どうする事もできない状況へと流れるのです。それを止められるのは、その想像力と洞察力を身に付けた、本物の“指導者”と、その者の心意気を純粋に信じ、それを受け継いで貫かんとする人達のみです。それを“カルト”と罵るか、“真の選ばれし者”と尊ぶかは、人それぞれです。

教訓:指導者が本気で自分の願いを叶えたいと思うなら、まずは従者の幸福を願え。自ずとして、気持ちが通じ合えば、その願いは双方向で必ず叶う。