迷馬の隠れ家 はてな本館

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難民・移民政策と人道的モラル教育

フランスで起きた暴動の発端は、17歳の男子が、警官の制止を振り切って逃げた為に発砲し、それが命中して亡くなった事がきっかけだった訳だが、そもそも、その少年が警官の指示に従ってたらどうって事ない話であり、且つ、逃げた理由が経済難民で不法滞在がバレるのが怖かったという…いろんな意味でモラルの欠如から起きた悲劇であり、特に、今のフランスでは移民政策に注力し過ぎた結果、モラル欠如な人々が法を盾に、また、所謂“人権派弁護士”を称する公的詐欺師が、諸般の事情で基礎教育すら受ける事なく他国へ移住した人の感情を焚き付け、余計に国内を混乱させて嗤う始末である。その背景には、難民保護の多くが、物資支援ばっかで、教育やモラルを指導する支援が、今日に至るまで、どこも“やってない”という事に尽きるのである。

 

 

日本の入管法が他国より厳しいのは、正にそこの部分の支援が“できない”からこそだし、もしそこの部分をクリアさせるには、それこそ難民キャンプや移民受け入れ施設等で、最低でも半年〜1年かけて、移住先で必要なマナーや国際的な人道的モラルの教育指導を義務化する必要があり、単に“読み書き計算”ができればいいという程度の指導では、フランスの事件同様の動乱が起きてもおかしくありません。ここで重要になるのが、如何なる宗教においても根本にある筈の“人の道を説く”基礎哲学と指導であって、信仰や布教は二の次です…日本は憲法下において信仰の自由が保障されてると言えど、その根幹には神道における“人として生きる心得”が、どの宗派であっても守られていて、且つ、生活様式に家事全般や職業の尊厳を、神話や伝記、果ては和歌、小説等の文学や武芸事を通じて、<s>ミャクミャク様</s>…もとい、脈々と説いて来たからです。

 

しかし、オイラが知りうる範囲での“世界宗教”と冠してる欧米や中東の宗教倫理には、残念ながらこの概念が欠如したまま布教してるトコがあり、故に互いに対立してるようにしか見えないのです。もっと言えば、生きる上で必要な物質を確保する事はできたとしても、継続的支援には限界が出るのは、“次の一手”を誰も指導せず、独立・自立の機会を奪って、“未来に蓋をする”施策しかやってないからです。ぶっちゃけ、日本の支援策は“物資より育成”というスタンスであり、それは先の戦時下において統治した東南アジア諸国の状況と、その後の独立運動の経緯を知れば一目瞭然であり、それは今でも中東やアフリカの開発支援でも同じな訳です。逆に国連加盟国のうち、出資負担の大きい欧米諸国の支援に、物資以外の支援はどうでしょう?つまり、そういう事です…上っ面な宗教倫理観を振りかざす割に、誰一人として救えず、逆に戦乱を悪化させてるのは、神道の概念でいう“人の道を外れた行為”だからです。

 

 

残念な事に、人間に限らず“生物”は、元々から他者を見下して優位に立つ事でしか生き残れない宿業を抱えて産まれる訳で、他種だけでなく同種の存在であっても血で血を洗う事しかできない存在です…そこを否定し抗う意思…それこそ来年公開予定の劇場版種自由のPVでのキャッチコピーそのものと言って良い概念を求めたのが宗教のあらましであり、故に根幹には“人の道”という生き様の哲学があるのです。しかし、仏教でも、釈尊滅後の世界において、仏教の教えそのものが歪められるのは避けられないと、法華経でも説かれてる様に、日常で習慣化して、それが“あって当然”となれば、初歩的な部分を簡略化して次世代に教えてしまう為、“道が逸れる”事になるのです。これが、如何なる宗教も、指導者次第で邪教化する要因なのです。

 

話を元に戻すと、真の意味での人道支援とは、救援物資による一次支援だけではなく、基礎教育や技術指導といった“二次支援”のあり方を模索し、実践する事です。そこには母国で自立する為のモラル作りも含まれるし、他国への移住を考える前に、移住先での法的規制や生活上での基本的マナーを学び、手順を追って身につける事が、ひいては祖国や同胞の人権や尊厳を守れる鍵だと諭すのが本筋だとオイラは考えます。勿論、受け入れる方も、単に相手を憐れんだり見下すのではなく、罪を犯せば誰であっても罰せられる事と、貢献すれば誰であっても褒め称えられる事は、“全て平等”という事を弁えるべきです…〇〇だからとか、××なのにとか、表面上の情報だけで目の前の相手を見ずに判断を下すのは、感情剥き出しで襲い掛かる野良犬以下な所業であり、完全に人の道を外れた忌むべき者として排除されるだけです。