迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

やる前から“諦め”たら、勝負にならぬ?!

毎度お馴染みの“出番のTOKIです”でやっている、“こんにゃく問答”(風刺を効かせたギャグセンスで、お題の言葉に合った答えをやり取りする遊びです。)で、“強くて弱い、弱くて強い”という出題に対して、オイラは答えを“庶民の声”とメールした。で、一応番組内で紹介されたのは良いのだが、時さんの反応がかなり曇った様子だった。そして一言。「そんな簡単にできる訳ないって…」オイラにしては、予想通りの反応だったから気にはしてないが、
(いや、かなり気にしてるから、書き込むんだが…苦笑)そんな言葉を、マスコミが吐いて良いのかと考えてしまった。本来なら率先して、民衆の声を権力の魔性にぶつけるのが、マスコミのチカラなのに…。

そもそも、どんな歴史を振り返っても、ちょっとしたきっかけで激変して行くのが通常である。ベルリンの壁の崩壊も、青年の勘違いから自発的に発生したとも言われてるし、ルーマニアの改革も、庶民の独裁政権に対する蜂起から達成されたのは事実である。また、インドが英国からの独立も、ガンジーの“非暴力による革命”からなされた結果であり、カンボジアポル・ポト政権の崩壊も民衆のチカラあってこその賜物である。そう、最初から何もせずに“諦める”事は、すなわち自分の生き方からの“敗走”であり、惨めである。たとえその時は失敗しても、また、正義の為の戦いで自分の命を落としたとしても、後に続く若者がその意志を受け継いで成就する事を信じて散ったならば、悲観する事ではない。むしろ、後輩・子孫に“何を残せたか?”で人生の勝敗は決するのであって、現状での結果のみで自己を判断するのは、後継者達に対する“侮辱”である。
そう、“天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ”(学会員は御書の“開目抄”参照)である。選挙でも仏法対話でも、“どんなにがんばっても…”と思う事もあるけど、何もしないのなら変化もない、単なる堕落だ。何だかのアクションをもって、世の中の“変革”は小さいながらも発生するのだ。それがやがて、一大ムーブメントに変化する時、“堕落”を“安穏”と履違えた権力者は、そのチカラ故に首謀者を迫害するが、最終的にはそれを行った権力者自身も何だかのカタチで自滅する。これが“御書”に書かれてる“法華経の理”である。(と、オイラは思ってる。)
マスコミの堕落は、今日に始まった訳じゃない。が、忘れちゃいけないのは、現場にいる人間が“改革”を望まない限り、上辺っ面の言葉だけが先行して、やがては自分達の首を絞める事となる。何で努兄が、大学の教え子たちにわざわざラジオの“現場”を体験させるのか、何となくオイラには理解できる様な気がする。