迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

“チカラ”だけでは解決しない話。

先日、イギリスでテロの実行犯と間違えられて、ブラジル人技術者が警官に射殺されたという痛ましいニュースが報じられた。そして、地元のイギリス人は“テロの犯人と誤認されても仕方がない”とか、“テロの犯人なら殺されても当然”という意見が大半を占めたとも報じられた。ヲイヲイ、それって、自分らも同じ目に遭う確率を上げてしまってるだけでなく、こないだのテロがいかにも“自作自演でした”と言ってるようなモンじゃないかい?テロの根絶には、武装や兵器といった“チカラ”による制裁だけで解決できるほど甘くはないっス。

そもそも問題解決の初歩は、相互の宗教や民族をこえた理解が必要なのであり、武力や財政面による“圧力”は最初から想定してはいけない。まして、相手に対して過去の因縁や自分の主張以外認めない態度は、必ず自分の国民を苦しめ、最終的には利益無き戦争で大損を喰らう。つまり、ごく一部の武器商人の“掌”で弄ばれるのがオチである。そしてそこには、宗教や民族思想を悪用し、空虚な“勝ち組”というポジションを確保したい輩が取り巻いて、庶民を、世界を“喰いモノ”にしてしまう。
意外かもしれんが、先進国だろうと後進国だろうと関係なく、庶民の“敵”は、“チカラ”に頼り過ぎた愚者である。そして、地球に巣食う“病巣”である。そう、権力で何もかもを牛耳ろうとする輩は、たとえそれが自分の親であっても許してはいけない。その事が原因で自分が“どん底生活”をせざる得なくなっても、本当に救われなければならない“弱者”のために、戦っていかねばならない。絶対逃げる事のできない、宿命的な“闘争”である。
だが、この相互理解を深めるための“対話”は、強欲になり過ぎた権力者や邪な聖職者では無理だ。だからこそ、庶民がもっと自分達の事、そして相手の事を学び、あらゆる面での交流を通じて互いを信じ合う“絆”を築き上げる事が重要になる。それを疎外する行為に加担する輩は、どんなメディアであろうとも、許してはいけない。
結局、“人間”の尊厳を信じきれてないのは、人間自身なのかもしれない。