迷馬の隠れ家 はてな本館

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“暴言”を吐くジャーナリストに未来を語る資格なし

選挙期間中“名物”の某アンチ創価ジャーナリストが、“日本を悪くしたのは、創価学会吉本興業朝日新聞日教組の4つだ!!”と某タブロイド誌のwebでほざいた様である。オイラ達学会員からすれば、毎度の事だから“ハァ?”って感じだが、読む人間によっては真に受けそうな内容である。が、単純な話、こういう著名な“ジャーナリスト”たる方が一定の団体“叩き”をやらかすウラには、それを依頼する輩がいて、そいつらが“資金援助”して発言の場を設けているのだ。
こういう輩に限って、叩いた団体がどんだけ苦労して、現在の地位を勝ち得て来たかを知らなさ過ぎる。創価学会は戦前から教育者が中心になって平和を訴え、政府から神札を強要されても断り続けた為に、創設者の牧口常三郎(オイラ達は“牧口先生”と称してる、元々は小学校の校長先生。)は獄中で亡くなった。当然だが、戦時中の“治安維持法”の名の下においての不当逮捕だ。

他の団体でもそうだが、元々は崇高な理念の下に活動して、そして現在の地位を築き上げた訳だ。(ま、日教組朝日新聞はここんとこの不祥事でアレだが…)しかし、それに対してやっかみを言う輩は、それまでの努力を見ずに存在そのものも否定する。つまり、“自分の意見=正論”というジャーナリストは、意外に歴史や背景に対して不勉強である。よくよく考えれば分かるのだが、やっかみ言う輩は、大概自分の努力を棚に挙げ、僻んでいる醜い姿のニートもとい、敗北者である。
自分が不利だからと、成功者を憎んでる様な輩は、自分以外は“天才”はいないと思い込むから僻むのであり、謙虚さや仲間に対する感謝の気持ちが、全然ない。以前から言っているが、周囲のサポートや迷惑をかけた相手に対して謝罪や感謝の気持ちを、たとえポーズだけでも示す事ができるのが成功者の“鉄則”であり、“帝王学”における基本的な姿勢である。
宗教においての崇拝行為は、本来は神々や先祖の例に対して“懺悔”と“謝礼”を同時に行う事であって、十字架の彫刻や曼陀羅に描かれた神仏に縋る事ではない。そもそも、仏教の“曼陀羅”とは、宗派によって形式は様々だが、自分の生命を写し出す“鏡”である。それに向かって経を読み、唱題(唱名)をあげるのは、自分の生命にある“仏の生命”に感謝と懺悔を行う為だ。
つまり、創価学会を否定する事は、宗教そのものの本分を否定する行為であり、吉本興業を否定する行為は、上方芸能を否定するだけでなく、“笑いの文化”をも否定する事になる。(そもそも、落語や歌舞伎等の江戸の演芸文化は、上方の大衆文化が発祥であり、それが昇華したのが今日の姿である。)また、日教組の存在を否定するのは、教員の存在を否定し、基礎的な教育を放棄する様な事でもある。朝日新聞の否定は、戦争の惨劇を“美化”して大々的に報道しかねないマスコミの暴走を食い止める役目を否定する事であり、デマでも何でも垂れ流して、人種差別や国家紛争を助長しかねない。
そう、このジャーナリストは、自分の国の“文化”を否定した“愚か者”である。仮にも“ジャーナリスト”と名乗るのなら、もう少し色んな歴史と知識を学ぶべきだ。固定概念で語るのは、ジャーナリストのやるべき行為ではない。