迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

青函トンネルと洞爺丸台風

え〜、暴風域で大変な中、いかがお過ごしでしょうか?オイラのバカンスもいよいよ明後日(出発は4日後)からだというのに、台風接近でかなりヤバいです。大丈夫か、明日の出勤…||||orz
で、こんな時期だからこそ話題に上るのが、近畿地方なら室戸台風伊勢湾台風(あ、これは名古屋か…)だろうけど、北海道バカなオイラにとっては“洞爺丸台風”は避けて通れない話。なぜって、この台風での“海難事故”がなかったら、青函トンネルなんて作らなかったかもしれないからだ。そこで、オイラの解る範囲でこの話を触れてみる事にする。

昔は列車もフェリーに積んで津軽海峡を渡ってたなんて言ったら、多くの人は“?”と思うだろう。が、オイラ達の幼少期までは、実際にあった光景だった。信じられないだろうが、津軽海峡には青森〜函館を結ぶ“鉄道航路”があった。(瀬戸内にも、岡山の宇部と香川の高松を結ぶ航路があった。)そう、昔は国鉄(現在のJRグループ)にも“連絡船”を就航していた時代があり、鉄道利用者は北海道へ渡る時は、必ず利用せざる得ない区間だった。(現在でも"連絡船”はあって、宮島口〜宮島を結ぶ航路は、JR西日本が運行している。)
今から50年程前、台風接近に伴い函館港は北海道から本州へ移動する途中の乗客と貨物が足留めを喰らっていた。しかし、湾内の波が穏やかになり次第に風も止んできた。そこで待機中の連絡船、洞爺丸の乗船手続きを開始し、満を持して出港した。が、突然天候が悪化し、次第に大時化となった湾内で波をかぶり、機械室がしおしおのぱぁ〜…もとい、海水が入ってエンスト、そのまま航行不能となり漂流、その後大波を受けて沈没した。また、函館港内に停泊(待機中)の連絡船が次々と沈没・座礁し、その当時11隻あった連絡船のうち、ドック入りしてた摩周丸や青森側にいた連絡船を除き、殆どが被害に遭った。その時の犠牲者の数は、あのタイタニック号沈没の時を上回る、およそ1500人。国際的に見ても、その当時の船舶海難事故としては最悪の惨事となった。
この事故の原因としては、列車(主に貨車)を“輸送する”という事を前提とした船の構造上、排水(波塩を排出する)機能が皆無に等しかった事、その当時の気象レーダーが日本海側は整備されていなく、時速100kmで日本海を北上してきた台風を見逃してしまった事、そして閉塞前線による一時的な“凪状態”を台風が通過したと勘違いしたという事である。
この事故を受け当時の国鉄は、青森〜函館を船ではなく“鉄道”で結ぶ計画を立てた。こうして、鉄道専用海底トンネルとしては日本最長の青函トンネルの建設が始まった訳である。
しかし、この工事はかなりの難航を極めた。地盤や水圧の関係で、時折海水が工事現場から滲み出たり、急に岩盤の硬さが変わる為、掘削機の交換が手間どったり…。とにかく施行距離が長いのとトンネルとしてはかなり深い地底での工事となった。こうして、およそ30年かけてこのトンネルは完成し、本州と北海道は“地続き”になった。そしてそれは、就航から80年続いた青函連絡船の役目が終わった時でもあった。
現在、この連絡船のうち、十和田丸(青森側)と摩周丸(函館側)が青函連絡船メモリアルシップとして、それぞれの港に繋留されている。オイラも(両方とも)訪れた事があるが、どちらも趣のある船だった。しかし、“現役時代”に乗船できなかった事が悔やまれる。そして、連絡船が“連絡線”に変わった時、すでに本州〜北海道の移動手段が列車から航空機に主役が変わっていた。

もしもあの台風がなかったら、今でも“津軽海峡冬景色”の歌詞の世界が繰り広げられていたのかもしれないと思うと、一抹の寂しさと時代の流れの残酷さを感じずにはいられない。