迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

防犯とプライバシーの垣根

最近、増えたと思いませんか?“防犯カメラ”の箱。ここ数年で殆どの商店街で、自主的に設置されてて、しかも最近は自販機の上なんかにも付いてたりする。しかし、防犯目的で設置してるとはいえ、それにかこつけて警察が“捜査協力”の名の下に、撮影した画像の提出を防犯カメラ管理者に依頼するというケースが増加してる。確かに、重大な事件の“捜査”の目的でビデオを回収して分析をするのはわかるが、その“後の処理”はどうだろう?特に最近は警察官による犯罪も頻発していることもあり、また、“ウィニー”の様な共有ファイルソフトを利用したウィルスによる、情報漏洩も頻発していることを考えると、本当に“こんな監視で良いんか?”と疑問視する。だがその“ウラ”には、昨今の“近所付き合い”が関係してる様に思える。

凶悪犯罪が“日常化”していなかった頃は、町内会の“付き合い”というのが、何らかのカタチ(餅つきだとか、近隣への清掃活動とか…)で存在していた。で、近所でのモノのやり取り(帰省の土産散布とか、引っ越しの挨拶回りとか)を通じて、自分の周囲に“誰が”居て、どんな事をやっているのかを把握する事ができた。が、最近は、その“付き合いが“プライバシー保護”を優先にした考えが先行し、特にマンション住まいの近隣との付き合いが減った様な気がする。
オイラんトコの近所も、最近になってマンションやアパートが増えた為、昔からの住人とのコミュニケーションが全く無くなった。(しかも、防犯意識が高いのか、エントランスがオートロックで、自由な出入りができない。)おかげで、近隣の連絡網である回覧板が、途中で途切れるケースが増えている。
つまり、人口増加で街が賑わうのは大いに結構だが、それだけ“プライバシー”を保持しようとして、近隣との付き合いを“遮断”した生活が一般化したんで、犯罪が横行しても気付かなくなったという訳だ。特に路地裏の“落書き”や、人気のない場所への“不法投棄”は、重大な犯罪がその付近で起きても不思議でないぐらい“危険”な状態になった証拠であり、現実に、そういった場所での犯罪が増えている。
確かに世間全体が“忙しい”状態なのは分かるが、それ故に犯罪がおき得る“隙”ができているんではないだろうか?また、街全体が“眠らない”状況だと、騒ぎに乗じて何が起こったのか、把握しきれない状況になったのではないだろうか?
こんなことをオイラが言うのは何だけど、現代人は、目の前にいる隣人すら信じることができないぐらい“人間不信”に陥ってるんじゃないかと思う。それはつまり、既存の宗教哲学が既に“形骸化”してる証拠であり、宗教すら信者や協力者に対してまでも“疑心暗鬼”で接してるようで、それ故に宗教全体が目指す“全人類救済”と“恒久的な平和”という概念が、崩壊したのではないかと思う。
それはオイラ達学会員でも、同じだと思う。本来僧侶と信徒が、各々の役割でできる事で協力し合って、初めて宗教の布教が達成されるモノだと思う。が、僧侶がその権威で胡座をかいて、信徒による布教活動を“妨害”するのなら、信徒が教団から離れて行くのは当たり前だ。また、せっかく“供養”として納めた“お布施”(神社なら“賽銭”)を、自分達の“贅沢”の為に使うなら、それは信徒に対する“裏切り行為”に値する。生活費が必要でも、それは自分達が使う最低限度に止めて、残りは近隣に対する“慈善活動”に使い切る方が(たとえ“偽善”でも)健全だ。
他人との接触…確かにオイラでも“煩わしい”と思ってる部分はある。が、自分の“存在感”を示す場が、犯罪行為以外にないなら、犯罪が増えるのも当たり前だ。だから、近所に“世話焼きジジイ”は、最低一人は必要なのかもしれない。そういった“近所付き合い”という名のボランティア活動は、今後世間から見直される事になるだろう。