迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

“主師親の三徳”ってなに?

なんだが“教学アレコレ”な状況だが、前回の“三類の強敵”の説明で触れかけた話を、今回はちょっとやっておこうと思う。前回は“三類の強敵”は世間一般でも言えた義理の話だと書いたが、今回は同じ様に世間様でも通用する話で“主師親の三徳”(しゅししんのさんとく)という言葉について。この言葉は特に、“三類の強敵”の中でも一番タチが悪い“僣聖増上慢”が忘れている、人間として“当たり前の振る舞い”を指した言葉である。

“主師親”とは、その漢字の意味をバラバラに説明しないと訳ワカメになるんでアレだが、要は“上に立つ者”の姿である。
まず、“主”とは字の通り主人であり長(おさ)を意味する言葉である。この場合は一般的に言えば、会社の社長であったり、国を治める政府要人であったり、組織の代表幹部役員等を指している。“組織の長”がいるなら、そこには当然それらを支える“部下”がいる訳で、国ならそこに住む民…つまり“国民”がいる訳であり、会社なら“社員”がいる。つまり自分より低い位の人間は、彼等から見て頼られるべき存在でなければならない訳で、その責任は重い。つまり、所属する組織の“顔”なのだ。従って、その“主”が傲慢だと、その部下も性格が問われる訳で、その逆もまた然りである。
次に“師”とは、人生における“師匠”であり、専門分野を詳しく教えてくれる“教授”であり、勉学を教える“先生”である。当然だが、その教えの受け手は“弟子”であり、“受講生”であり“生徒”である。何かを“教える”という事は、教える内容にもよるが基本的にそれに似合うだけの知識と経験がないとダメな訳であり、いくら学業の成績が良くても、それに基づいた教育方針が提示できない様では、師匠として資質を問われる事になる。また、その分野以外の知識がない様では、とてもじゃないが弟子にエラそうな事は言えなくなる。(当然だが、そんなエエ加減な師匠の元で修行すれば、弟子もエエ加減なヤツになる)
で、“親”とは両親・縁者を指す部分で、親戚や近所の住人もこの範疇に当てはまる、つまりは“大人”である。当然だがその反対は“子供”であり、善悪の区別がつかないからこそ守って育ててやるべき存在である。しかし、最近の“親”ときたら、血縁関係すら意識が軽薄になり、簡単に“育児放棄”をやる始末である。(しかも近所の“大人”すら自分の事“だけ”で精一杯で、周囲を観察していないときた。)
子供は親の背中を見て、また広い世間を一緒に見ていろんな事を学び、成長して行く。弟子は師匠と一緒に学び、師匠を“ライバル”に見立てて知識を深める。国民はは今後の発展と拡大を推進する為に、国主と手を取り合って持てる力を尽くす。故に親は子を守り、師匠は弟子を守り、国主は国民を守る為に奮迅する。
しかし悲しいかな、現在の社会情勢を見ると、親子の絆は軽薄になり、師弟の関係は信頼なんて皆無、いわんや国民は国家に対して疑心暗鬼ときたモンだ。これじゃ“お先真っ暗”だわな。そりゃ、国民だって鬱になるし、弟子だって自信なくなるし、子供だって夢すら見る事叶わぬじゃ、誰だって自殺したくもなるわな。
だからといってそこで“諦める”と永遠に這い上がれないからツラいよな、どうしたらいいと思う?“誰かに頼ってても何も変わらないんだったら、そこで自分が“立ち上がれ”いいんだよ。その“立ち上がる為の勇気”を示す事ができる人が、“主師親の三徳”を受持(じゅじ:受け持つという意味)する事が可能な人間なのだ。その際に現れるのが、前回説明した“三類の強敵”って訳。その“闘い”こそが“生きる喜び”を感じる為の“スパイス”ってこと。
失敗したって、その時がダメでも、無理に背伸びしなくても、人生において“回り道”しても、それらは決して無駄ではない。その時にいっぱい学んで、いっぱい笑って、いっぱい泣いて…そういった経験が人間としての感受性や個性を引き立たせる。そして“自分はコレしかできない”と思う事を、“自分にしかできない”という誇りに変える事が重要。(オイラが“My favorite announcer”シリーズで取り上げたアナ達は、その殆どが今でも、自分の生き様に“誇り”を持っている。だから還暦過ぎでも、見た目は“老いぼれ”でも、その中身は“カッコいいオジアナ”なのだ。)そう、“主師親”は誰の胸中にもある生命の根源。誰だって、来たるべき時が来れば、その立場に立つ事になる。今は子供ならば親に守ってもらいながら、親から“何か”を守るという事を学べばいいし、弟子であるなら師匠からいろんなアドバイスを受けれながら、“誰か”を指導する為の手順を見て覚えればいいし、組織の属しているなら、その身分を預けるだけでなく、あらゆる意味で“信頼できる”自分の居場所を作っていけばいい。ただそれだけ。たとえどんな困難が起きても、それを乗り越えるのは自分のみ。もっと言えば、自分以外は乗り越えられない“試練”なのだから、避けるのではなく“真っ向勝負”で切り開くしかない。それを学ぶ為に、オイラはオイラの人生を歩んでるだけ。ツラくっても、しんどくっても、その後の“達成感”だけは譲れないっすね。(できればオイラだって本当は、誰もが羨む“お気楽極楽”な事はしたいけどね…苦笑)