迷馬の隠れ家 はてな本館

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地涌の菩薩ってなに?

青年教学1級試験に向けて勉強中のナカ―?(・∀・)人(・∀・)/―マさん達、試験に向けて捗ってます?オイラは…これからです。(お互いがんばりましょう…orz)
さて、勉強中の息抜きに(毎度やん…苦笑)、今回は“地涌の菩薩”(じゆのぼさつ)について、オイラがわかる範囲での解説をいたしましょう。創価学会に限らず、日蓮宗系の宗教団体及び天台宗なら、一度は聞いた事あるこの言葉、いったい一般的に知られている菩薩(観世音菩薩や弥勒菩薩等)とどこが違うのでしょう?答えは法華経の中に書かれています。

俗に知られている“菩薩”とは、仏教の十界論(じゅっかいろん:詳しく説明すると本題から逸れるが、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏に区分けして説かれた世界観の事を指す)の中で説かれる“菩薩界の所業”を行う者達を指す言葉で、知恵を人々に授ける文殊師利、世間を見聞きする観世音、子供達を守る地蔵等のそれぞれの役割において、自分の持てる力で人々を救済する(悪く言えばお節介を焼く)人は、すべて“菩薩”とされます。つまり、誰から言われてやってる訳じゃないが、なんだかのカタチでボランティア活動をする人は、必然的に何らかの“菩薩の生命”が関与してると考えてくれれば結構です。(ま、中にはそれ故に傲慢になり、他人を見下すバカもいますが…。)
しかし、“地涌の菩薩”には、その概念は当てはまりません。なぜでしょう?
地涌の菩薩”は、法華経の中でも虚空会の儀式において登場する菩薩達で、読んで字のごとく、地面からたくさんの眷属を引き連れて釈尊多宝如来の前に現れたとされます。その様子を見た弥勒菩薩が、不思議がって釈尊に訪ねると、自分が久遠(くおん:遥か昔とか前世等を意味する)以来教えを説いた人々だと答えたんで、さらに詳しい解説を釈尊の弟子達は求めた。そこでその要望に応えて説いたのが、如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)第16なのである。
つまり、釈尊在世時には正しく法華経の教えを説く事は可能だが、そのあと、つまり釈尊入滅後の世界で、正しく法華経の教えを広めようとすると、存在がない分あやふやになる。そこで未来の人々に法華経の教えをしっかりと伝える使命を託すために出てきたのが、“地涌の菩薩”なのだ。
この“地涌の菩薩”は、それぞれが森羅万象を表している。リーダー格の上行(じょうぎょう)菩薩は炎を表し、煩悩(ぼんのう:迷いや悩み等の障害を意味する言葉)を焼き払い、苦悩の闇を照らすとされる。言い換えれば、太陽の光ともいえる存在観である。浄行(じょうぎょう)菩薩は文字通り水を表し、人々の生命を洗い浄める象徴で、海の様な存在観である。無辺行(むへんぎょう)菩薩は風を表し、一切の障魔(しょうま:障害・邪魔)を吹き払って、無限の可能性を引き出すとされ、安立行(あんりゅうぎょう)菩薩は地を表し、生きとし生けるもの達に安定した場所を提供し、生命を育むとされてます。
この四菩薩、何かに似てると思いませんか?そう、一部のFF(ファイナルファンタジー)シリーズで出てくる“クリスタルの謂れ”と同じです。つまりこれらは自然界の四原則で、これに天…つまり天空(宇宙)が加わって初めて世界観が成り立つのです。
実は釈尊は最初から、自分の弟子に法華経を託そうとは考えてはいたんですが、それだけでは途中で法華経の教えは形骸化し、その哲学が無意味なモノになると考えたのです。そこで未来の人々にこの教えを正しく伝えようと思い、森羅万象のあらゆるものにも“仏性”(ぶっしょう)が存在すると説いて、過去世の存在となる自分から、みんなにヒントを残したのです。
そう考えてみると、今世のオイラ達がやってる事は、来世の人々に“誇れる自分”を呈示している事になるのかも知れませんね。