迷馬の隠れ家 はてな本館

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ヒトのココロは“難信難解”?!

さて、今日は連投でネタ出しです。(さっき、北海道から帰ってきたばっかりなのに…。)青年教学1級試験で、“観心本尊抄”(かんじんのほんぞんしょう)にヤマ張ってる人も多いのではないだろうかと思うが、おそらく一番大事な“御書”だけに、正式な読み方と語句の意味ぐらいはキチンと把握できるぐらい勉強しましょう。(コレばっかは、オイラも苦戦中…)
さて、この“観心本尊抄”の中には、イヤになるほど“難信難解”(“なんしんなんげ”と読む)という言葉が出てくるとは思う。実はこの言葉、現在の社会が取り巻く問題と直結した部分でもある。よくよく考えてもらいたいのだが、ここんとこ多発している発作的な殺人事件やあらゆるデータの改ざん、さらには産地やブランド等の捏造の大半は、人間の根本ともいえる相手(他人)を“信じる”という行為が、まったくといっていい程軽視された状態だと思いませんか?

“難信難解”という言葉は、読んで字のごとく“信じ難く、理解し難い”という意味がある。つまり、疑心暗鬼な状態を指す言葉であり、こっちの言ってる事を信じてもらえないだけでなく、理解もしてもらえないモンだから、相手の言い分も理解できないし、相手を変に勘繰ってしまうケースも多々ある。正しく言うと、相互理解ができない状況と言って良いのかもしれない。ではなぜ“難信難解”なのか?
コレを理解しようと勉強すればする程、余計に“難信難解”のスパイラスにハマるのは必至であり、余計に答えが見つからないと思う。しかし、ふと自分が置かれた環境や世間の動きをこの言葉をもって観察すると、おそらく言葉で説明するより明確に理解できるだろうと思う。そう、相手を“信じる”事は、たとえどんな関係者(親族であれ、親友であれ)であろうと、相当“勇気”が必要な行為であるのは明白である。まして、完全に“あかの他人”の事を理解してやる事なんて、ハッキリ言って無理である。どんなに親族であっても自分の親や兄弟の“本音”というのは明かされる事ってのは滅多にない訳であり、いわんや自分の子が学校や地域の中でどのような扱いを受けているかを正直に話す事なんて、“家族”故に明かさない事だってある。
こないだの長浜での事件も、よくよく考えれば自分本位で我侭なのはお互い様なのに、相手が外国人(中国人)だからとか、地域(の風習)に馴染めなかったからといって、邪険にあしらってたフシがあったならば、このようなケースはいつ発生してもおかしくなかった訳であり、この悩める母親に対して、言語を超えた部分でのカウンセリングを行っていたなら、防げれた部分である。また、以前あった下関の放火ジジィも、受け入れてくれるだけの懐深い場所(帰れる故郷)があったならば、おそらくこんなバカげた事をしなかったであろう。
釈尊法華経を説く前に、声聞(しょうもん)・縁覚(えんかく)の“二聖”(にしょう)は永遠に成仏(じょうぶつ:仏となるための悟りを開く事、決して霊魂が浄化される事ではない。)できないとキッパリ言っている。なぜなら、宗教に関する哲学と知識はあるが、そこには信心、つまり“確信を持って釈尊の教えを信じる心”がない事を指摘してるからである。釈尊の時代(ハッキリ言って紀元前の話)ですら、その哲学や思想を信じなかった人々は多かった訳だし、いわんや鎌倉時代流刑地佐渡の片隅で日蓮が“オレの言葉を信じろ!!”(“御書”の大半はこういった激励と厳しい指導が、信徒からの手紙や供養に対する“返答”として書かれてる。)と叫んでも、その言葉をまともに聞けた信徒は少なかったハズである。(事実、布教活動中に何度も念仏信徒に襲撃喰らってますから…)それでも、その言葉を信じ、思いを貫き通した信徒・弟子檀那達の情熱は、後世において世界的な広がりをもって実証を示したのは、古くからの学会員なら薄々気付いてる事である。
昨今の社会の“歪み”の大半は、こういった相手を理解し思いを信じてやる“気持ち”…一言でいえばバカ正直に相手を思いやる“勇気”がないからこそ発生するのであり、逆をいえば“その他大勢”でいた方が楽だからと自分の思いを殺し、努力してる人を蔑んで見る事で一過的な“優越感”に浸りたい愚かさを、自分の中で制御できてないから相手(の心情)が傷ついても平気になってしまうのである。それが、世間に蔓延すると、社会情勢が不安定になり、いつしか精神的な閉塞感で自分が足掻くハメになるのである。(その果てが極端な貧富の差を生み、世界的な戦争を引き起こす元凶となる。)
大切なのは、相手がどんな身分であれ、どんな宗派のモンであれ、目の前にいるのは“人間”であって、それ以上でもそれ以下でもないという事を自分から悟り、一人ひとりに対して平等に“対話”をやることである。つまり、この行為こそ本来の“観心”の行(ぎょう)であり、その“本尊”が学会員だったら、あの“御本尊”なのであると認識しないとダメなのだ。もっと言えば、さっきも書いたが義理で“御本尊”に勤行(ごんぎょう:いわゆる“おつとめ”です)・唱題(しょうだい:宗派によっては“声明”ともいうアレです)をやっても、それは意味がないのであり、仏壇に飾ってるだけの単なる紙製のタペストリーにすぎない。先人達の哲学とその真髄を信じてるからこそ、初めてやってる意味を成す訳である。(ま、オイラもエラそうな事を言えた義理ではないが…。)
相手の“心の痛み”が理解でき、一緒に“幸福になりたい”と願う気持ちを相手も信じてくれるから初めて“成仏”ができるのであって、決して他の世界に幸せがある訳でもないし、まして自分自身の勝手な理由で死んでしまったら、自分の事を思い集ってくれたみんなまでもが不幸になる。その“悪因”を断ち切る“聖剣”がオイラ達学会員が信ずるところの“法華経”であり、それを受持(じゅじ:“受け持つ”という意味)している以上はそれをフルに使わないと、それこそ罰があたりますよ。(苦笑)