迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

話が平行線なのはなぜ?

世界情勢を見ていると、どうもアメリガが“何”に焦ってるのか、対話より戦力での“解決策”に躍起になってる様で仕方がない。一方、北朝鮮は米韓合同演習に触発されたかの様に、対抗策的な演習が行なわれた様である。ウラにあるのはおそらく、武器商人による経済活動の“活性化”と思われてる。また、日本と周辺各国との関係も、どうもギクシャクしている様だ。なんでそんなに“対話”を邪魔臭がるの?そんなに相手のことを理解できないの?

根本的原因として、人間とは兎角“利己主義”に走りやすく、責任問題等のややこしいことから“逃避”したがるクセがある。また、生物学上の生存競争から端を発する闘争本能によって、“生き残るため”の手段として弱者を痛めつけ、自分がその“弱者”にならない様虚勢を張る。つまり、生きながらにして“傲慢”な生命感情を持っている、悲しき“生命体”なのである。ゆえに、自分に不利な状況だと、そこに立ち向かい闘う者と、そこから逃げ出して他者のせいにする者とに分かれる訳である。前者はごく僅かな存在で、どういう訳か先天的なハンデを(身体的or身分的に)背負ってる人に多く、後者は大多数で、しかも自分達を“正当化”することで必死になっている。
つまり、ハンデがある者は、必然的に自分が社会に“迷惑”をかけているという“負い目”がある以上、その痛みを知っているし誰かの手助けが必要なのを、身を持って体感できる立場である。従って、生き残る術を必要とするから、自分なりの“闘い方”を身に付けるのであって、“闘い方”を知らない人には生きていけないと感じるのは無理ない話です。
法華経”という教えは、この“生存競争”の法則にある“欠点”に着目し、いかにして“すべての人々の心を救うか”を説いた真実の法です。言い方を変えれば、このBlogにコメントを残す業界関係者やファンは、法華経における“多宝如来”の立場といえよう。つまり、オイラの真剣な態度でネタ出しをやっていることに対して、何らかのカタチで評価してもらってるとオイラは思っている。そのお互いの“信頼関係”が、お互いの気持ちを救う唯一のチカラであって、それ以外のチカラ(財力や地位、身分など)は、たとえどんなに持っていても、その上のチカラを持つ者から見れば微々たるモノで過ぎない。
オイラに対して、ブサイクだとかノロマだとか言われたって、そんなのは自分でもわかりきってる事だし、今更何言われたって平気だ。しかし、その周り…つまりこのBlogのネタで縁を持った人達までバカにするならば、オイラは絶対に許さない。いわんや、自らは努力もせず、また闘いもせずに幸福になろうと考えるヤツらは、本当の“幸福”を知らない愚か者だ。いつも苦労するから、安穏なる日が待ち遠しく幸せそうに見えるだけで、退屈な日々を送る者にとって波瀾万丈な人生の方が楽しそうと感じるのと同じだ。だから、貧乏なのは、自分より裕福な相手の歩調に合わそうとして無理してるからであり、骨肉の争いが生じるのは、相手が思う程自分の評価が低いとは思ってないから拗れるのだ。自分があらゆる意味で貧しいのなら、せめて人生を充実させる為の哲学を学び、逆に裕福なら、その屋台骨を支えてくれる人々に多大な感謝を忘れずに施してこそ、双方が救われるのだ。
“勝ち組”だの“負け組”だのという価値観は、結果的には自分で自分を見捨てた姿であり、決してその分類方法では、誰も幸せにはなれない。どうしてもそうしたいのなら、自分から“救いの手”を振り払ったら良い。そうすれば、イヤでも自分の“醜さ”が見えてくるハズだ。