迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

不正はアカンと言ってるのに…。

政治家とゼネコン、及び一部企業との癒着問題。たびたび発生する“汚職”のニュースに、毎回オイラはウンザリしてます。もうね、アボカドうましかカトーちゃ…もとい、アボかとバカかと罵りたいっすね。
でもねぇ、コレは元を質せば結局はオイラ達“有権者…つまりエエ年したオトナがエエ加減な態度で政事を“放置”したのが悪いんであって、どんな政策もオイラ達が勉強不足のままで無視するモンだから、政治家が半ば強引に可決されっちまうってこと。どんなに『不正なコトはすんなや!!』と“プロ市民”が叫んだところで、こういう体質は一向に改善しない。実は、この“体質”こそ“権力の魔性”の正体で、一度この魅力にハマると、麻薬と同じ様な依存性が発生し、直らないのがオチである。

なぜ、この“体質”が直らないのか?その原因は“民主主義ゆえ”といっても過言ではない。つまり、様々なケースがあるのだ。
まずひとつ目は“もともと貧乏性”という部分。つまり“富豪”という身分に憧れ、カネに目が眩んで肝心の“帝王学”が身に付かない。“帝王学”とは、つまりは自分が財政的にも裕福なのは、自分のもとで苦労している民出あるという概念から、どんな時にも慕ってくれる民に対して感謝と懺悔を行なうのがスジとされる哲学である。つまり、この部分がわからないモンだから、“Money is Crazy”となる訳である。
ふたつ目は“権限と責務”という部分。権限があるという事は、逆をいえばそれに似合うだけの“責任”を負うという事。つまりは、役割を与えるという事はそれに対する監督責任は、権限を与えた者が負う訳であり、現場責任者と連帯して対応しなくてはいけないということ。逆をいえば、責任の所在がハッキリしないのなら、最高責任者である長(おさ)が不惜身命(ふしゃくしんみょう:本来の意味は身体も心も正法の為なら惜しまずに捧げるという仏教用語)の態度を示すべきである。
みっつ目は“反省だけなら猿でもできる”という部分。つまり、不正を犯し政界から座を追われたならば、潔くその場を立ち去るのが正しい政治家の姿である。いくら辞職したからといって次の選挙に図々しく立候補するのは、賢明な地元民からするとハッキリいって“大迷惑”である。政治家じゃなくても世間に意見できる場は、いくらでもある。しかし、政治家という“職種”は悲しいことに、政治の場に立たない限り自分の意見は“無視”されると思い込んでるフシがある。
大まかにいうと、この3点が共通してるといえる。だいたい考えてもらいたいんだが、国政選挙において当選した候補者の得票数より、落選した候補者全員の得票数の方が圧倒的に多いのだ。つまり、選挙区の地元住人達全員が当選した候補者に対して、“不審”を抱いてるが現実であり、コレに対する言い訳もせずに政治をやってるのが現状である。よって、投票率が下がるもの無理ない話で、憤懣を抱える庶民に納得させるだけの“魅力”を持ってる政治家がいないのが現実なのだ。
そういった背景を考えると、小泉首相に“ダマされた”と感じる国民がいてもおかしくない訳であり、小沢一郎民主党代表のやり方を嫌う有権者がいても不思議じゃない。(当然だが、共産主義万歳な発想も社会主義に異議アリと唱える学者がいても良い訳である。)その結果を一番把握しておかないといけないのは、実はオイラ達国民全員なのかもしれない。
教訓:“国家滅亡”の始まりは、民と権力のバランスが崩れた時である。