迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

チームプレーとスタンドプレー

負けちゃいましたね、ジーコJAPAN。ま、敗戦の言い訳はともかくとして、今回と前回(2002年、日韓共催)と比べた時、最初からオイラは予選リーグで敗退すると思ってました。てのも、個々のレベルとしては実力はあるんですが、“日の丸”を背負っての戦いにおいて、外国リーグ組とJリーグ組では、“ひとつ屋根のした”で纏まるとは思えません。むしろ、息が合わなくて当然です。では、諸外国の代表メンバーの場合、普段はバラバラなのに、なんで“自国の旗”を背負ってもひとつになれるのでしょう?

オイラなりに考えると、それは“環境の差”にあります。特にブラジルの場合、殆どの選手がブンデスリーガセリエA等の欧州プロサッカーリーグのチームに在籍していて、まともに“全体練習”なんてやっていないハズです。しかし彼等の場合、自分が在籍するチームに母国のチームメイトがいたり、言語も母国語(ポルトガル語ラテン語)と同じだったりします。つまり、最初から“仲間”がいて、いつでも手合わせができる環境下で常にリーグ戦をやってる訳ですから、“いざ、鎌倉”となった時に団結できるのではと考えています。
翻って、日本の欧州リーグ組はどうでしょう。彼等の周りに同じ“日の丸戦士”はいません。むしろ在籍するチームでは、“浮いた”存在でしか内容に思われます。こうなると、周囲の環境に馴染もうと、(逸見アナの“大阪弁封印”ではないが)“日本断ち”をやらざる得ない部分が起きてしまうのです。そうなると、他の日本人選手と“壁”ができてしまい、結果的にはチグハグな状況になると思うのです。
また、それぞれの“役割分担”を明確にしていないと、日本人は戸惑ってしまう習性があります。言い方を変えると、“主役と脇役”の関係です。つまり、いくらセーブ率が高くても、シュート回数が多くても、それを“アシスト”する役割の存在がいなければ、意味を成しません。それはプロ野球でも然りで、WBCの勝利は、イチローがチームを引っ張ったのではなく、みんながそれぞれの“役割”をキチンとこなした結果なのです。あくまでイチローは、それを海外(アメリカ)で発揮し易くする為の“アシスト”をしたまでであって、彼一人で勝利したのではありません。
一見“主役”として目立ってる者も、実際は裏方や脇役に助けられて初めて“仕事”ができるのであって、それを邪魔する行為は、たとえ“チームワーク重視”でも許されない行為です。逆に本当の“チームワーク”とは、一番活躍して欲しい人に、その持てる力をすべて発揮できる様に気を配る事です。つまり、がめつく“主役”をやろうと他者を排除する為に躍起になる事は、実は“本末転倒”な話であり、たとえ誰からも褒められなくても、黙々と自分の仕事をこなす事が、かえって“人生の主役”を演じる観心なのです。(そういった意味では、かつて征平タンや努兄のとった態度は、当然の事だと思う。)
世界的な指導者には、大きく分けて2種類います。ひとつは、世界的な“英雄”で、もうひとつは“名も無き哲学者”です。前者は、他国との戦争や論争で相手を叩き、敗戦国の人々の“恨み”も抱えて祀り上げられる。しかし後者は、そういった“表面上の力関係”すら無効にする“哲学・信念”をもって、多くの人々を導く。従って、前者の指導者は時として、自分の“祖国”を破壊する“一凶”を抱えている。そして後者の指導者は、国や民族(時には宗教や思想の違いを)も超えて愛される。その違いは、前者は“自分の存在”を認めて欲しくて暴れるのであり、後者は“自分よりも他人”を大切に思うが為、すべてにおいて謙虚になる。ただそれだけである。しかしそれこそが、“大きな違い”である。
こういった事を考えると、勝負事で最後に勝つ者とは、どこまでも我欲に負けない精神と、あらゆる事情に感謝する気持ちを大切にする謙虚さを持っている。それが欠けて、周囲の雑音に圧し流された状況下では、どんな勝負事でも勝てなくて当然である。