迷馬の隠れ家 はてな本館

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“C作戦”と新富士駅の“悲劇”

エラい揉めてる様です、滋賀県内での新幹線新駅建設に関する問題。てのも、こないだの県知事選で当選した方は“建設反対派”で、前知事は“建設容認派”だった為、JR東海栗東市とで混乱がおきてます。確かに、今頃になって新幹線の“新駅”を京都〜米原区間に作ろうって言っても、利用客があまり見込めないのはともかく、既にGOサインが出て始まっている計画自体を、知事が変わったのを理由に“白紙撤回”するというのは、路線を保有する鉄道会社にとっては“大迷惑”な話。しかも栗東市は、以前にも説明したが競馬(JRAトレセン)で潤ってる街。それゆえに、財政的にも滋賀県下では、唯一といっていい程の“黒字”自治体である。しかし“政令指定都市”ではないんで、滋賀県知事の“許可”がない限り、自分勝手に都市計画を推進できないジレンマがある。(確かに、その計画で使う“無駄な税金”を福祉厚生にまわせという意見はわかるが、先々を考えたインフラ整備ができていないと…。)
実は、コレと同じケースが静岡県富士宮市であった訳で、察しが良い方はわかると思うが、創価学会日蓮正宗(日顕宗)がモメたことで、“アテが外れた”っていう話があります。そう、コレが俗にいう“新富士駅の悲劇”ってヤツです。

本題に入る前に、学会員ならご存知の“学会C(カット)作戦”というヤツについて、一般の人の為に軽くではあるが説明しておこう。日顕宗が学会員全員を法華講(つまり檀家)として縛り上げ、創価学会そのものを解散させようと画策した訳で、その第一段階として、池田大作名誉会長に対する在家信徒としての最高の地位から“罷免”するという事を、学会に対して一方的に通告した。実は以前にも同じ様な事があって、この時は学会の方が折れて、表面上ではあるが和合僧(わごうそう:僧侶も在家も一体になるという意味)を保つメンツを立てた。がしかし、次々に信徒から受け取った“浄財”を喰いモノにして、芸者遊びや布教活動とは関係ない海外豪遊を散々やりまくった事実が発覚のである。さらには法主である日顕は、事もあろうに他宗(しかも禅宗系)の寺院に自分トコの先祖の墓を建立するという“前代未聞”な行動をやったのである。さらに、自分の事を“日蓮大聖人の再誕”と騙って、自分勝手な教義を信徒にブチ撒けたのである。
コレを機に、学会員全員が“決起”したのである。この“決起”の拠り所となる“御書”は日興遺誡置文(にっこうゆいかいおきぶみ:日蓮正宗の二代目教主、日興の書いた日蓮正宗における“チェックシート”で、別名“二十六箇条”とよばれている。)で、そこには、“一、時の貫首(法主)為りといえども仏法に相違して己義(自分勝手な教義)を構えば之(コレ)を用う可からざる事。”と記載されている。つまり、日蓮の理想である“和合僧”を邪険にする僧侶に対しては、たとえ法主であっても在家は“縁切ってヨシ!!"という訳である。この行動に日顕宗は狂って、学会員全員を強引に“破門”したのである。結果は…というと、ご存知の通り、学会員の約9割が日顕宗に対して、そっぽを向いた訳である。(残り1割のうち、いわゆる“過激派”が例の“カルト団体”へ移行した訳である…恥ずかしながら)
さて、この“モメごと”の影響で被害を受けたのが、実は富士宮市である。“本山”である大石寺はココにあって、学会とモメなかった頃は毎年、大石寺に向かう信徒で賑わっていた。ただ、問題点として交通の便が非常に悪く、関西以西の信徒は、新幹線で静岡駅まで出て、そこで在来線に乗り換えて富士駅富士宮駅で待っているシャトルバスに乗らないと行けなかった。しかも、定期登山会(春と秋の2回)時期には、この2駅(プラス静岡駅)では対応しきれない程の信徒が一斉に来るため、静岡県JR東海に話を持ちかけ、地元自治体とJR東海が建設費を折半して、大量の信徒を受け入れる“玄関先”として新たに駅を設けたのである。コレが“新富士駅”である。その駅が開業して数年後に、このモメごとが発生したのである。こうなると学会員が殆どだった利用客が全部東京(大概は中央線信濃町駅で、実は学会本部の最寄駅はココ。それ以外は創価大学東京富士美術館がある八王子市)へ流れてしまい、あっという間に寂れたのである。この影響でシャトルバスを運行していた会社は倒産し、しかも学会員がせっかく整備して作った桜並木(以前は“日本の桜百選”にも選ばれた名所だった)まで潰したモンだから、地元住民すら大石寺に足を運ばなくなったのはいうまでもなく、大石寺行きの路線バスも採算が取れないという理由で、一日数本しか走ってないという有様である。だから、富士宮市は新たな“観光資源”を発掘しないとヤバくなって、その妙案として地元の駄菓子屋の“定番メニュー”である焼そばを富士宮の“ブランド”にしたという訳である。
宗教団体の“総本山”がある自治体にとって、こういったケースが多々あって、例えば大阪府だと富田林市の場合、PL(パーフェクトリバティー)教の本山移設(岡山県へ移動)問題でモメて、付属の学校(高校野球の名門校)と夏の花火大会を残してもらう様懇願した程であり、奈良県天理市の場合、天理教の総本山である事を理由に、天理市中心部の再開発計画(“天理京”構想)を天理教と折半でやろうといった程である。つまり、信者が多い宗教団体ほど、本山のある街を訪れて利用するから自治体も潤うのであり、それがある日突然途切れると、まさしく炭坑閉鎖後の集落並(ヒドい例では“軍艦島”状態)に寂れるのも早い。海外でもエルサレム(@イスラエル)やメッカ(@サウジアラビア)等に人の波が絶えないのは、そこがある宗教の“聖地”であり、そこを訪ねる信徒がいる限り、その街は栄えるのである。皮肉な話ではあるが、寺院の多い街は、その寺院が勢力を保ってる限りは賑わうのであり、寺院に勢力がないなら寂れるのがオチである。ま、そう考えると、自治体が宗教団体に“脆弱”な理由がわかるかも?!