迷馬の隠れ家 はてな本館

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差別からくる“因縁スパイラル”

人間という“生き物”はとかく、“差別”なしでは生きられない性分といえるだろう。もちろん、それは生物学上において、より有能な種族を残す為のサバイバル(生存競争)から派生する部分であり、とても重要な行動である。しかし、過度な差別は結果的に種族繁栄とは反する“滅亡”を招く。最近増えてるネット上での“民族差別”の背景には、相手に面と向かって言えば問題になる事でも、“インターネット上では素顔がバレない”という心理からくる、童話の“王様の耳はロバの耳”と同じだという“思考”が足りない事から来てるのではなかろうか?

以前、ユダヤ人は自分に都合の悪い話をすると、なんでも他人のせいにして逃げると言ったが、コレは何も他人事ではない。つまり“自分は神様に選ばれた人種”というヘンな意味でのプライドがあって、それを批判される事を極端に恐れているからである。故に、自分より見た目や能力、更には出身地等が格下だと思った途端に、思いっきり相手をバカにする。しかし、同じ理由で相手が自分をバカにしたら、場合によっては“殺害”までに至るケースが多々ある訳で、その結果、双方とも“不幸の連鎖”にハマる。
この事について、明確に御書を通じて指導してくれたのが日蓮であり、更にそれを“学問”の分野で発展させようとしたのが牧口常三郎(まきぐちつねさぶろう:創価学会の初代会長、元々は小学校の校長先生だった。戦時下において政府指導の基で配布された“神札”を批判したため、治安維持法違反の罪で逮捕され、獄中で殉教した。)が説いた“創価教育論”である。つまり、個々によって持ってる才能や役割が違うのに、それをバカにするという事は、自分もそれだけの“侮辱”を受ける“義務”があるという事。言い方を変えれば、“自分は自分、他人は他人。役割は違えど、立場は同じ。”という発想の転換を導き出した訳である。
つまり、自分が“エラい”と思ってる人ほど“世間知らず”なのであり、常に自分の知識や見聞を広げようと努力する人は“無名の賢者”といえる。“誰か”が悪いのではなく“自分”が悪いから、世間から認められようと努力するのは良いが、相手の“本性”を見抜かずに好かれようと努力するのは、結果的に双方不幸である。常識的に考えて“おかしい”と思ったら、素直に批判する事も大事であり、“仲間だから…“とか“親友だから…”とかの理由で、常識から逸脱した行動をとった者を擁護する必要はない。たとえ相手がどんなに裕福な資産家でも、悪どい商売を続けるなら、取引先として相手に対して“取引停止”しても構わない訳であり、どんなに優秀な医師がいても、賄賂や謝礼を執拗に要求する様だったら、行きつけの病院を変更したって良い訳である。
自分から“変革”していってこそ、初めて世間を変革させるきっかけになるのであって、自分が変わろうと思わない限り、世間が変わるハズもない。“自分達は優秀だ”と思ってるなら、相手に敬意を払うのがマナーであり、横柄な態度を取る事は、相手もまた自分に対して“見下す”態度を取って当たり前なのである。だが、向こうが最初から自分をバカにしてる様なら、“そういう態度しか取れないバカ”として哀れんでやる事が肝心。ま、お互いにギクシャクした関係のままで終わらせたくないなら、たとえ相手に非がなくても謝罪する様なら、それを受け止めてやり、自分に非があると感じたら、先に謝る方が得である。