迷馬の隠れ家 はてな本館

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宗教は“麻薬”か?

レーニン(旧ソビエト連邦指導者)の言葉に、“宗教は麻薬だ”がある。本来はこの前に“堕落した”という言葉が付くんだが、大概“無宗教”を掲げる人は、ココの部分をカットして語る。“堕落した宗教”とは、信徒の浄財を湯水の如く注ぎ込んで贅沢する僧侶や、権威や肩書きに驕れ、信徒をバカにした宣教師を指す。つまり本来は、キリスト教の“共栄共存”を基本とした社会のあり方を実践する為の思想であり、それを具体化したのが“社会共産主義”である。しかし、その思想は結局、そういった宗教を廃絶した政治家の“ご都合主義”に取って代わり、腐敗・堕落を極めたのはいうまでもない。
この“精神的な歪み”に効く特効薬こそ、実は彼等が一番嫌ってる“宗教(正法)”なのであり、キチンとした“宗教概念”を学ばぬ限り、内外にわたる“悲劇”は永遠に続く結果となる。
そもそも、本来“宗教”とは何の為に説かれるのだろう?

コレを説く“鍵”を握ってるのが、仏教における“十界論”であり、コレの解釈ひとつで心理的な問題を解決する糸口も見えてくる。
以前、“十界”について説明したんでココでは省略するが、もっとわかりやすい考え方をするなら、自分の両手を見てもらいたい。大概(先天的に、あるいは事故等で失ってる場合はともかく)片手に5本の指があり、それが両方あるんだから、都合10本ある。この中で薬指を動かさずに(もちろん、開いてる方の手で押さえたり、手を窄めたりせず)、小指を手のひらに向けて曲げる事ができますか?訓練をしてたり、日常で小指や薬指を使う機会がある人ならともかく、通常は曲げようとすれば必ず薬指も一緒に動いてしまいます。
ではこの小指に“人”と書き、薬指に“修(羅)”中指に“畜(生)”人差し指に“餓(鬼)”そして親指に“地(獄)”と書いて、やってみてください。
どうです?そう、コレは六道(本来は天界も含む)のうちの5つの世界を表しています。つまり、なかなか単独で曲げるのは難しいハズです。コレが左手(レフティーなら右手)は苦にせずできる人でも、利き手(その反対側)では、ついつい薬指も動く人の方が多いハズです。
今度は利き手の方を親指から順に、天・声聞・縁覚・菩薩・仏として、両手を合わしてみてください。キチンと手を合わせてみたら、それぞれと対を成す“生命観”と比較してみてください。察しの通り、“手を合わす”とすべての“生命観”は手にすっぽりハマってるハズです。
つまりこの“遊び”は、手という“最小単位”で“十界互具”を表現しているんです。“単独で曲がらない小指”とは、具現化しにくい仏界と、本来なら公平な立場であるハズの人間を表し、左右に書かれた“世界観”はそのまま自分の“生命観”を意味しています。そう、“快楽”を求めさまよう姿はまさしく“無限地獄”であり、物欲に走れば“餓鬼”であり、知性を磨く為に研鑽を弛まないなら“声聞”であり、どちらも“欲求”を意味します。また、緊急時において他人を犠牲にして生き残るなら“畜生”で、全く面識なくても“何かの縁”を感じ互いを励まし合うなら“縁覚”であり、そこで見栄を張り他人をあざ笑うなら“修羅”で、気取らず自分にできるすべてをやり尽くして救済するなら“菩薩”です。
そして、“人”という立場と“仏”という立場が同じという事は、何を意味するのでしょうか?そう、“ヒト”として生まれてくるのは“生物”としても稀なケースであり、“仏界を開く”という行為は誰でもできる代物ではありません。コレと同じなんです。言い方を変えれば、森羅万象には様々な“生命”があり、空気中に漂うウィルスも、トレセンや牧場で繋養されている競走馬も、ヒトと同じ様に命があり、それぞれの立場で“生きる戦い”を展開してるのです。そこから“逃げる”という事は、(たとえ自ら望んでなった訳でなくても)自分の“存在感”を否定してる様なモンです。そうなると…自殺を考えるのも無理ない話です。しかし、ヒトは勝手に死ぬ事ができても、他の動植物はどうでしょう?コレが“自殺”を否定する意味です。少しでも長く生きようと、他の生命は争う訳であり、その為の行動が時として“自滅”をもたらしただけで、本来なら生命維持が困難な状況でも、なんとか乗り切る為に足掻くのです。意味なく“自殺”を考えたり、快楽を求めて大量虐殺に及んだりするのは“ヒト”だけです。こうなると、“人である事”がバカらしくなって、余計に“逃走”したくなりますよね。ココを踏ん張って、“生きる喜び”に変えてしまう境涯を開ける事ができるのも“人”なんです。この違いに存在するのが“法華経”であり、人間という“生き様”を示して闘い抜けるからこそ、“仏界”を開く事も可能なんです。つまり、“漠然”と自分の“宿命”を捉えるか、自らが望んで“宿命”に立ち向かうかです。コレが“人”と“仏”の差です。
ま、ココまでがオイラ的な推測ではあるんだが、何事も自分の“宿命”からは、“逃げちゃ駄目”なんです。自分の“宿命”に対して堕落するか勝負するかは…結局自分次第なんです。