迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

My favorite announcer vol.21

ネタの前にお詫び。今日の早朝(つうか、夜中)、大量のスパムコメントがオイラのBlogを襲い、アクセスしにくい&コメントが書き込めないという事態になりました。先程スパム避けの処置を施しましたが、正直不安です。LOVELOG関係者の管理が甘い事より、オイラ自身のセキュリティー管理が甘かったから招いた結果です。心よりお詫びします。

とまぁ、事務的な挨拶はともかく、今月の“My favorite announcer”のネタをサクサクとやっちゃいましょう。北海道に行ったり、高校野球を見てたりしてたら、まともに図書館籠りやネット検索等ができなくて、なかなか資料集めが捗らない中での更新ですが、今月はこの春以降“干され気味”になっている元・NHK大阪の、寺谷一紀(←コレで“いちき”って読む)アナの話です。元々彼はアナとしてデビューしたのではなく、ディレクターとしてNHKに入局したんだとか。では、どうして彼はアナウンサーになりたかったのでしょうか?参考資料を片手に、ちょっと彼の“破天荒武勇伝?!”をまとめてみようと思います。

吹田生まれの北摂人。そんな彼にとって一番大切にしてる事は、“等身大の感覚”だとか。そのせいか、彼の“標準語”は普通のアナウンサーなら消し去っている“不器用さ”がある。それもそのハズ、元々アナウンサーとしての“発音・発声”の教育を受けずに今日まで来ちゃったからである。ここいら辺が征平タンとの違いであり、征平タンの場合はアナとしての訓練を受けたにもかかわらず、関西弁で喋る方を選んだ訳である。
休話閑題。そもそもディレクターとして採用された訳で、アナウンサーとしての訓練なんて、まず必要のない部分である。そのため普段から関西弁(北摂弁)で話す為、NHKとしては“表舞台”には出したくなかった様でもある。
入局してすぐの新人は、みんな東京でそれぞれの分野の研修を受ける。ココで最終面談を行ない、最初の赴任先が決定する。で、通常なら地方局(それも殆どが末端局)に赴任するんだが、彼の場合その場で“東京はイヤ!!大阪にして!!”と言ったモンだから、当時の人事は“荒治療”の為、東京本局の報道局・特報部に放り込んだのである。(実は“生意気”な新人は、本人が嫌がる部門に放り込むのがNHK流の“嫌がらせ”なんだとかw)で、そこで2年程ニュース番組の特集やロケの担当をやらされたそうな。で、企画を出すときに、ある意味“ヲタク”系のネタをどんどこ出すモンだから、面白がられたのかどうかはわからないが、大阪放送局スペシャル番組部(“NHKスペシャル”等特番の制作を担当している部門。特番系に“NHK大阪”の表示が多いのは、この関係から。)への異勤となった。
で、ココでヒット作を制作する…という話をすると、話がややこしくなるんでトバすが、自分が制作を担当する番組で“ある事”に気付いてから、彼は“ボクが話し手になった方がエエんちゃうか…”と思う様になったのである。コレが制作サイドからアナウンサーという“パペット役”への転身のきっかけとなる。それは、NHKのアナに多い“冷淡さ”が、関西弁で話す地元住民と“噛み合ない”という場面を度々現場で見たからである。そして、制作サイドの人間ですら、ちょっとでも“東京本局に気に入ってもらおう…”というか、“やらせ”ギリギリの演出を強要する状態を見て、“こうなったら『自作自演』できるアナになったらエエんや!!”と意を決したのである。で、たまたま管轄の大津放送局(大阪放送局は近畿圏および福井県の本局扱い)にアナの欠員が出た…実は田丸一男アナが、このタイミングでNHKからMBSへ“転厩”した訳で…のを受け、晴れてアナウンサーになったという訳である。
しばらくして、大津放送局から大阪放送局に戻ってきてからは、アイドル並みのハードスケジュールをこなす“売れっ子アナ”になった訳だが、そんな彼でもやりきれない思いになった経験がある。それは“阪神・淡路大震災”での取材姿勢である。いうまでもなく、東京の報道はそれこそ“スクープ第一、尊厳無視”の姿勢ゆえに、未曾有の災害現場で“取材”の名の下に、被災者の気持ちも察せずにマイクを向けるという“暴挙”を目の当たりにした。それはNHKも例外ではなく、多くの神戸市民および近隣都市の被災者の心を傷付けた。この事が彼の“等身大の感覚”を重んずるきっかけとなり、相手にマイクを向ける時は、必ず相手の“痛み”を知った上で話すというスタイルをとったのである。
そうこうしているうちに、いよいよ東京本局から“戻ってこい”という辞令がくる様になった訳である。今でも“年功序列”で派閥を持つ体質が問われているNHKだが、出身大学や経歴があまりにもに囚われない彼は、ある意味NHKに新風を吹き込んだ“功労者”である。だからこそ東京本局の“改革”をやってほしいという“異例的ラブコール”だった訳だが、研修で、あるいは報道局での経験がよっぽどツラかったのか、その誘いをすべて断り、フリーへの道をとった…。
この春までラジオのレギュラーを持っていたが、現在は完全に放送マイクから離れてしまった。実力とかはともかく、彼が今までにとった態度がココに来て、仇となったとは思いたくはないのだが…。