迷馬の隠れ家 はてな本館

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摂受・折伏時によるべし…なんだけど。

こないだローマ法王が、“ジハード(聖戦)こそ諸悪の根源”と言って、多くのイスラム教徒から反感を買った訳だが、コレは完全にローマ法王自身の“初歩的な勘違い”である。あくまでも相手は“異教徒”であると同時に、欧州圏外の“他民族”である事を失念した発言である。この場合だと、まず“諸悪の根源”は自分達の“生きる権限”を脅かすあらゆる“武力”と唱えるべきであって、名指しで他宗教を非難してはいけない。また、ホントにイスラム教徒を敵に回して“戦争”をする気ならば、まさしく全世界のキリスト教徒から“友軍”を募り、互いの聖地であるエルサレムやメッカで、しかも住民を完全に避難させた上でドンパチするべきだろう。だがそれは、結局キリスト教(特にローマ正教会派)自身が古来からの“カルト教団”である事を実証する様なモンであり、“豪商に踊らされた堕落教団”と言ったマルクスやルターの皮肉を認めざる得ない話となる。

宗教を広宣流布する方法として、摂受(しょうじゅ)と折伏(しゃくぶく)がある。摂受とは、異文化の相手に対して、自分達の宗教の良さを知ってもらう為に、あえて相手のペース(習慣)に合わせてやる方法で、折伏とは、相手の存在を認めた上で、その“弱点”を突いて強引に修正させる方法である。早い話が、“ホーム&アウェイ”の法則である。
あくまで折伏は、同じ民族や宗派において行なう方法であって、他宗派や異文化民族相手にこういう事を、しかも強引にやると、後々紛争の火種になるのは目に見えているというモノ。逆を言えば、摂受は異文化コミュニケーション重視の方法であって、相手が他宗派と言えど同じ国家にいる場合は、却って“宗教の本分”が曲げられてしまう危険を伴う。宗派上の“喧嘩上等”が折伏であり、相手の尊厳も保つのが摂受である。
かつてキリスト教は、ポルトガルやスペインの軍艦に同乗し、侵略した領地の原住民に対して布教を行なった訳だが、流石に強引な勧誘はやらなかった。なぜなら彼等にとって、キリスト教の“神様”はとてもじゃないが素直に受け入れる事なんかできる訳がなく、そのままでは“異端の神”として嫌われるのがオチである。だからまずは、自分達は“人畜無害”である事を実証する為に、原住民の習慣を学んだのである。
SGI(創価学会インターナショナル)でも、随法跛爾(ずいほうびに、漢字失念:正法を信仰していても、礼儀や作法は相手の習慣に合わせてやっても構わないという意味)の教えに従い、それぞれの文化圏に合わせた指導と、御書や教学に関する用語の翻訳が行なわれている。だからこそ世界中から注目されている訳であって、こういった事を知らないのが、実は日本人だったりする。(現在、学会員に普及している“方便・自我偈勤行”は元々、SGIに入会した外国人向けに指導した勤行・唱題の方法だった。)
つまり、“佐渡御書”の一節にある“摂受・折伏時によるべき”とは、まさにこの事であり、相手を愚弄する行為は、“折伏”の意味をはき違えた態度である。特にアラブとヨーロッパ、そしてアジアは、どんなに地続きといえど、全く異なった文化圏である。いくら世界中にキリスト信徒がいても、その数は他の宗教を信仰してる人口より少ない。そういった事を考えて発言してこそ宗教界の長としての態度であって、自分の世界観だけで発言するのは、2ちゃねらーと“同類”である。