迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

間違った価値観は、人生を狂わせる。

“学歴社会”だとか“成果社会”だとか言われる昨今だが、その弊害は結果的に本末転倒な答えが残るだけである。こないだから報道されてる、公立高校(進学優先)での必須科目(社会科)の単位不足は、殆どの大学入試で社会科(特に歴史学)を試験項目から外した“弊害”であり、いわゆる“ニート”や永年フリーターの増加も、成果主義を“イイ様”に捉え、悪用している事業者が多い為に起こっている“弊害”である。
学校で学ぶ事は、むしろ社会科だけで充分履修できるモンであり、その補助科目として様々な語学や理数系科目があるとオイラは思ってる。(こう見えて、オイラ社会科全般は小中高と常に成績がトップクラスで、それを理由に日本史科がある短大には、推薦入試で入ったクチであるw)
つまり、社会の仕組みとその矛盾点を追求し、実社会で学んでこそ初めて“知識”が広がるのであって、教科書通りの学問は、むしろ世間では通用しない。だからこそ“生きる価値観”を得る為の哲学や文化が必要であり、それを学ぶ一番の近道が“生きた宗教学”だと、オイラは学会員の端くれなりに実感している。

とかく、最近の企業は“Time is Money”なフシがある。しかしそれは、開発や生産が早ければ良いという訳ではない。例えば物流業の場合、どんなに遅くても、注文された商品を確実に配送して、なおかつ、誤配(配送先間違い、仕分けミス等)や商品破損事故(砂糖に洗剤の匂いが付く、ガラス瓶入りのポン酢が割れて他の商品にも被害が出る等)を未然に防ぐ方が、逆に最終的な時間ロス(再配送、再注文等)が少なくて済む。
公共交通機関でも同じで、スピード競走だけで勝負する様な交通機関は、結果的に重大な事故を起こした際に、多くの利用客や沿線住民に被害を及ぼす危険がある。去年のJR福知山線脱線事故も、過密なダイヤでしかも秒単位で運行をしてきたツケが運転手や車掌に余計なプレッシャーを与え、結果的に多くの死者と多大な損益をもたらしたのは記憶に新しいハズ。
結局は、どんな単純作業でも分相応の“熟練度”が必要であって、そこを評価せずに作業効率のみを評価する様では、結果的に利用客に迷惑をかける事になる。また、掛かった費用までも取り返そうとして無理を重ねると、それが原因で目的が“目の前の金銭”に変わり果てて、とんでもない惨事(保険金目的殺害や偽装強盗等)を招く事になる。
勝負事でも謂えてるのだが、勝負の“見極め”が肝心で、欲張った勝負は結局“身の破滅”を招く原因となる。(オイ、聞いてるか?ノブさんw)もちろん、強欲なまでの勝負根性は時として必要だが、だからと言って熱くなり過ぎると、不覚を取られるのも事実。悩み焦ってもしょうがない時は、ちょっと一呼吸置いて、自分の周りを見渡してみよう。ホントに“自分だけ”が不幸と思い込み過ぎると、ホントの“幸福”を見逃す結果になる。誰だって焦るし悩む時もある訳だし、自分自身の“痛み”なんて他人は知らなくて当然だし、自分だって他人の“痛み”は知らない、コレで平等。障害を持ってるといっても、内臓疾患や後天性の障害者と、先天性の障害者や脳神経の発達障害ではその感覚も違うし、当然だが同じ障害でも程度が違えば、問題は別である、コレも平等。一見矛盾してるが、その矛盾を敏感に感じ、世間と闘うからこそ意味がある。それを学ぶ場こそ、社会科であるべきとオイラは思っている。