迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

明日は赤穂義士際なんだが…

毎度この時期と言えば、必ず話題となるのが“忠臣蔵”な訳で。コレはそもそも、浅野内匠頭吉良上野介にいじめ喰らってブチ切れたのが事の始まりとなる“事件”である。ブチ切れた場所が場所だった(江戸城は松の廊下も含めて、抜刀厳禁だった)モンだから、この後5代将軍徳川綱吉が一方的に浅野内匠頭切腹を命じ、その2年後の12月14日に、大石内蔵助率いる赤穂浪士47人が吉良邸へ侵入。夜明け前に主君の仇討ちを果たしたってのが大筋の話である。だが元々、吉良上野介も単に生意気だからという理由で、浅野内匠頭に意地悪してた訳ではない。実は、浅野家の先代が吉良上野介に対して、造塩事業のノウハウを教えなかった事を恨に持っていたらしい。

ってのも、赤穂藩は瀬戸内の気候を活かした造塩事業が盛んで、コレに目を付けて、同じ海辺の吉良藩でも良質の塩を作るノウハウを学びたかったそうな。だが、造塩事業のノウハウは藩でも“企業秘密”であり、おいそれと他藩に教える訳にもいかなかったのである。故に、吉良藩と赤穂藩は対立関係になり、コレを当時の幕府は全然知らなかった訳である。だから幕府はそういう事情お構いなしで、両藩の藩主を同時期に参勤交代させたという経緯がある。(もっとも、徳川幕府にとって、こういった地方藩主のモメ事は、職に溢れた旗本等が藩主になるチャンスだった為に、ほったらかしていた様だが…)そういう意味では、赤穂藩の武士達の憤懣は表向きこそ吉良上野介に対してだったが、本当なら徳川幕府に向けたかった訳である。が、そうなれば日本は別の意味で“滅亡”しかねない事は、当時のサムライ達はみんな知ってた訳で、幕府の“制裁”は形式上でも厳守していた。そういう時代での“大事件”だったからこそ、庶民も赤穂義士の“武勇伝”は拍手喝采したのである。それくらい本当は、徳川幕府の政治に対する不満を庶民は抱えていたと考えて良いだろう。
さて、赤穂義士際の会場でもある赤穂市へのアクセスだが、東京方面だとJR神戸線(山陽線)の播州赤穂行きの列車に乗れば確実である。直通列車以外にも、姫路か相生で赤穂線の連絡列車が出てるんで、コレに乗り換えても行ける。岡山以西だと赤穂線直通の列車が出てるんで、コレに乗り換え。クルマで行くなら山陽自動車道赤穂I.C.から国道250号線方向へ。ちょっと姫路寄りに戻れば、中心街に出られます。