迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

モノに狂うとは哀れなり?!

毎度選挙が近付くと、異様なまでに創価学会に対する嫌悪感を露にして吠える“おバカ”な政治家が出てくる。まぁ、経緯については某掲示板を見てたらわかるんで割愛するが、今回はなんでその“おバカ”の発言が、一部を除いてマスコミが“総スカン”してるかについて、オイラの考えをまとめさせてもらう。
以前、公明党結党にまつわる話をやったんで、詳細についてはそっちを参考にしてもらうとして、問題になっているのは、“創価学会の言いなりになっている”という指摘を受けた自民党幹部に関する話。安倍総理自身はともかく、彼の父、故・安倍晋太郎氏や中曽根元総理、それに小泉前総理は、もともと創価学会公明党を結党した背景や、自分達自民党員の“本分”を、下積み時代からよく知っていた上で、当時の党幹部の“狗”になるフリをしていた。(もともと、小泉前総理は党内でも“異端児”扱いだったから、実は公明党創価学会の“政治のあり方”は、自民党も学ぶべきと考えてたらしい…)しかし、多くの代議士は地方(しかも農耕が主力産業)の出身者で、しかも都会の空気に憧れた見栄っ張り集団だった為、地元の有権者に気に入ってもらおうと“ええカッコし過ぎ”な態度しかできなかった。

もちろん、中には“国家安泰”を望んで首相の座を目指した方もいた訳だが、基本的に地元の財界人から“運営資金”をもらった上での活動なモンだから、結局“庶民の生活改善”や“地域格差の是正”といった、基本的人権に関する部分の政治は行われず、また、コレを“良し”とした官僚が、血税をそれこそ“湯水の如く”ボッタクる様な予算を計上し、ムダな経費を“国家予算”としてチャラにしてきた訳である。
コレを是正する為に、国鉄(現在のJR)や電電公社(現在のNTT)、専売公社(現在のJT)、更には道路公団(現在だとNEXCO等)と郵政事業の“民営化”を掲げたのは、“地方を捨てる”為ではなく、自立した“自治権保護”が国税のムダを省き、ひいては経済活性化の牽引役になると考えたからである。(ただ、現場の連中がそこまで考えが及んでないヤローばっかりが幹部にいるモンだから、混乱する訳であって…w)
コレに対して、いわゆる“族議員”連中は、こういった“公共事業のリベート”欲しさに議員になった様な連中なモンだから、支援者(=地元の財界人)との関係を切られたくないから、庶民が望む“自由”に対してケチをつける訳である。
俗にいう“格差社会”とは、学力や財力ばかり見られがちだが、問題なのは“世間”に認知されるか否かの部分であり、そのわかりやすい“単位”が学歴や職業上の“肩書き”なだけである。言い換えれば、誰にだって“劣等感”や“孤立感”というモンが存在してて、他人より自分が“イイッ(・∀・)”と言われたいから、必死になるのである。故に他人の方が自分より優れてると言われると、必然的に嫉妬し恨む訳である。
オイラから言わせれば、それこそ“それがどうした?”である。自分以外の人間ができる部分はそいつだけに任せれば良いだけの話であって、自分にしかできない部分で相手に差を付けてこそ意味がある。それを仏法の上で解き明かしたのが法華経であり、その哲学を民衆に広めんとして活動したのが日蓮である。その精神に則って活動してるのが現在の創価学会の“生き様”であり、それを見て尊敬してくれたのが一部の自民党員である。ここを忘れてはいけない。当然だが、自民党員の中にはこの関係を苦々しく思ってるヤツもいるし、学会員でも現行の自民党の態度に未だ慣れないヤツもいる。(今まで歪み合ってましたからねぇ…w)しかし、上層部自身が過去を鑑みて、どれだけ有権者をコケにしたかを猛省してるからこその“連立”であり、“創価学会の言いなり”とは、それこそ有権者をバカにしてる態度そのものである。学会員とて、日本国籍を有してる以上は“貴重な有権者”であって、それに対してバカにするのであれば、国民に対して暴言を吐いたのと同然である。言い方を換えれば、“票田”を自らの手で枯らしてる様なモンである。だからオイラは選挙で当選した候補者の得票数より、落選した候補者の得票総数が上回っているのなら、それは“敗北”と同じだと思ってる。どんなに全選挙区で公明党の候補者全員当選を果たしても、それ以上の他候補者への票数がある限りは、代議士は襟を正すべきだと思っている。逆に本当に喜ぶべきは、自分達の意見がそのまま“国家安泰のキーワード”になってくれた時だと信じている。そのための闘いは、統一地方選から本格的になる。それまでに、如何に“勉強”するかが焦点、東国原宮崎県知事ではないが、華やかな世界を顧みずに地元の為に闘う意志を示した様に、本気で“お国の為に…”と思ってるなら、世界情勢や国家の問題を直視する必要性がある。その“覚悟”がある者こそ、これからの日本を支える柱となるべきであろう。むしろ、自分がそうありたいならば、他人の悪口を言うべきではない、言うだけ自分が惨めになるだけである。